知脈

人間の終焉

人間の死the end of manla mort de l'homme人間という発明

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言葉と物』で「人間の終焉」を読む

ミシェル・フーコー(渡辺一民 / 佐々木明訳)

本書はこの主張を結論部の核心に据え、人間が波打ち際の砂に描かれた顔のように消え去るという有名な比喩で結ばれる。心理学や社会学といった人文諸科学が依拠する足場そのものが、歴史的に限定されたものにすぎないことを示す狙いがある。

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人間の終焉とは、「人間」が時代を超えて存在する普遍的な実体ではなく、十九世紀初頭に成立した近代的なエピステーメーのもとで初めて、知の対象であると同時に知る主体でもあるという二重の姿で立ち現れた、歴史的に新しい形象にすぎないとする主張である。ミシェル・フーコーは『言葉と物』の結論部でこの主張を提示し、エピステーメーが再び転換すれば「人間」もまた消滅しうると論じている。

「人間」という発明

近代以前の西欧の知は、ものごとの類似を軸に世界を秩序立てていたが、やがて事物を分類し比較する表象の秩序へと編成原理が転換したとされる。フーコーによれば、この表象の秩序のただなかにも「人間」という特権的な場所はまだ存在しなかった。生命・労働・言語がそれぞれ固有の歴史性を持つ実定性として表象の背後に据えられる十九世紀初頭の認識論的断絶を経て初めて、「人間」は知の中心に立つ場所を得たとされ、この転換とともに心理学や社会学など人文諸科学の成立が可能になった。「人間」は知を支える普遍的な土台ではなく、特定のエピステーメーが生み出した一つの効果にすぎないというのが、この概念の核心である。

波打ち際の顔

『言葉と物』はこの認識を、人間が波打ち際の砂に描かれた顔のように消え去るだろうという有名な比喩で締めくくる。フーコーが示唆しているのは人類そのものの絶滅ではなく、「人間」を知の中心に据える現在の配置が、ニーチェの説いた神の死になぞらえられるようなかたちで、別のエピステーメーへの移行とともに崩れうるという可能性である。この消滅とともに、認識する超越論的主体という位置づけそのものが後退し、主体の不在を前提とした知のあり方が前面に出てくるだろう、とフーコーは論じている。

フーコー対チョムスキー

この主張の急進性は、1971年10月22日にオランダのアイントホーフェン工科大学で行われた、フーコーとノーム・チョムスキーの公開討論に見て取れる。チョムスキーは生成文法理論(『統辞構造論』に始まり、後の著作で明確化される言語能力の生得性という主張)を論拠に、時代や文化を超えて存在する普遍的な人間本性を擁護した。対してフーコーは、人間本性という概念自体が歴史的・権力的に構築されたものにすぎず、超歴史的な実体として語ることはできないと退けている。噛み合わないまま終わったこの対話は、「人間」を普遍とみなす立場と歴史の産物とみなす立場がいかに相容れないかを、期せずして具現化していたとされる。

人文諸科学への問いかけ

「人間の終焉」というテーゼの射程は、思想史上の一挿話にはとどまらない。心理学や社会学が拠って立つ「人間とは何か」という足場自体が歴史的に限定された構築物だとすれば、これらの学問は自らの基盤を無自覚に前提してきたことになる。この批判は構造主義からポスト構造主義へと連なる系譜のなかに位置づけられ、フーコー自身をやがて知と権力の分析へと導いていくことになる。

この概念を扱う本

この概念を扱う本(1冊)

言葉と物
言葉と物

ミシェル・フーコー(渡辺一民 / 佐々木明訳)

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本書はこの主張を結論部の核心に据え、人間が波打ち際の砂に描かれた顔のように消え去るという有名な比喩で結ばれる。心理学や社会学といった人文諸科学が依拠する足場そのものが、歴史的に限定されたものにすぎないことを示す狙いがある。