知脈

言葉と物

ミシェル・フーコー

訳:渡辺一民 / 佐々木明

言葉と物
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エピステーメーという方法——知の秩序の考古学

『言葉と物』の出発点にあるのは、ボルヘスのある文章で紹介された、架空の中国の百科事典の動物分類だとされる。そこでは「皇帝に属するもの」や「遠くから見ると蠅のように見えるもの」といった、互いに何の共通の基盤も持たない項目が同列に並んでいる。フーコーは序文で、この分類を前にして自分が思わず笑ってしまい、その笑いが「物事はこのようにしか秩序づけられない」という自分自身の思い込みを打ち砕いたことを明かしている。ここから本書は、思考を可能にしている秩序は普遍でも自明でもなく、時代ごとに異なる無意識の枠組みに支えられていると考える。この枠組みをフーコーはエピステーメーと呼び、それを掘り起こす作業を考古学と称する。

この見方に立つと、西欧の知は連続的に進歩してきたのではなく、ルネサンス・古典主義時代・近代という、互いに通約できない秩序の断絶として現れる。ルネサンスの知が事物のあいだの類似と類推によって世界を編み上げていたのに対し、古典主義時代には事物を同一性と差異にもとづいて一枚の表に配置する思考が支配的になり、博物学・富の分析・一般文法という三つの学が、この共通の配置原理を分かちもつ。そして十九世紀の初め、この「表」の秩序そのものが崩れ、生命・労働・言語というそれぞれ固有の歴史と内的法則を持つ領域が代わって立ち上がる。本書が博物学から生物学へ、富の分析から経済学へ、一般文法から文献学への転換を並べて描くのは、個々の学問の進歩を語るためではなく、知全体を支える土台が入れ替わったことを示すためである。

「侍女たち」が示す、表象する主体の不在

本書の第一章が分析するベラスケスの「侍女たち」は、この方法を一枚の絵によって先取りしていると論じられる。画中には王と王妃を描いているはずの画家がいて、奥の壁の鏡にはその二人らしき姿がぼんやり映り込むが、肝心の対象そのものは私たち鑑賞者が立つ位置、つまり画面の外に置かれたままである。フーコーはここに、見る主体と見られる客体のどちらも名指されないまま、表象という営みだけが自立して成立している、古典主義時代に特有の知の構造を読み取る。表象を統一し根拠づけるはずの人間という審級は、この絵のどこにもまだ位置を与えられていない。

人間諸科学の誕生と、その終わりの予感

「侍女たち」が示した不在は、本書後半でもっとも論争を呼んだ主張へとつながっていく。古典主義時代の秩序が崩れたのち、人間は経験の対象であると同時に、その経験を可能にする条件を担う主体でもあるという、二重の身分を負った特異な形象として知の中心に置かれるようになる。生命・労働・言語がそれぞれ生物学・経済学・言語学という実定的な学を持つ一方で、人間はそれらの学が明らかにする決定を受けながら、同時にその学自体を成り立たせる主体でもある。心理学・社会学、そして文学や神話の研究といった人間諸科学は、この矛盾した二重性を埋めようとする試みとして、本書の考古学のなかに位置づけられる。

だとすれば、人間は超歴史的な探求対象ではなく、ある知の配置がもたらした比較的新しい形象にすぎないとフーコーは論じる。配置が変われば、人間もまた「渚の砂に描かれた顔のように」消え去りうるという本書末尾の言葉は、当時支配的だった人間中心主義や実存主義への挑発として読まれ、賛否を含む大きな反響を呼んだ。この人間諸科学批判はここで完結せず、のちに規律と処罰の技術を論じる監獄の誕生、そして生権力のもとでの欲望と主体化を論じる性の歴史I——知への意志へと形を変えて引き継がれていく。知の考古学として始まった探求が、権力の系譜学へと進んでいく出発点として、本書はいまも読み返す価値を持っている。

参考資料

- ミシェル・フーコー『言葉と物』(渡辺一民/佐々木明訳、新潮社) - Michel Foucault, Les Mots et les Choses: Une archéologie des sciences humaines (1966) - Michel Foucault, The Order of Things: An Archaeology of the Human Sciences (English translation, 1970) - Michel Foucault, Surveiller et punir: Naissance de la prison (1975) - Michel Foucault, La Volonté de savoir (Histoire de la sexualité I) (1976)

キー概念(10件)

エピステーメー
100%

本書はルネサンス・古典主義・近代という3つのエピステーメーを設定し、博物学・一般文法・富の分析、あるいは生物学・言語学・経済学など異なる学問領域が同一時代には共通の認識の布置に貫かれていたと論じる。エピステーメーの移行は進歩の蓄積ではなく断絶として描かれる。

人間の終焉
95%

本書はこの主張を結論部の核心に据え、人間が波打ち際の砂に描かれた顔のように消え去るという有名な比喩で結ばれる。心理学や社会学といった人文諸科学が依拠する足場そのものが、歴史的に限定されたものにすぎないことを示す狙いがある。

表象の秩序
90%

本書は一般文法・博物学・富の分析という古典主義期の三領域を、記号による表象の秩序づけという共通原理から読み解く中心的な分析対象として扱う。この秩序は近代のエピステーメーへの移行とともに解体される。

考古学的方法
88%

本書はこの方法を用いて博物学・一般文法・富の分析、そして生物学・言語学・経済学という異分野の知を横断的に比較し、共通のエピステーメーを浮かび上がらせる。方法論としての精緻化は後の『知の考古学』で図られる。

認識論的断絶
85%

本書は類似から表象へ、表象から近代の実定性(生・労働・言語)へという二度の断絶を軸に構成され、思想史を連続的な発展として語る従来のやり方を批判する足場になっている。ある時代に自明だった知の枠組みが、次の時代にはほとんど理解不能になる非連続性が随所で強調される。

類似
85%

本書は前半部でこのルネサンス的な「類似」の知を詳述し、17世紀に古典主義的な「表象」の知へと断絶的に置き換えられる過程を描く。この転換が本書全体の考古学的分析の出発点になっている。

人文諸科学の成立
82%

本書は人文諸科学が自然科学のような確固たる基礎を持たず、機能と規範、葛藤と規則、意味と体系という借用された対概念と、無意識という共通の指示対象によって不安定に組み立てられていると診断する。心理学・社会学・文学/神話研究という3領域が具体例として検討される。

主体の不在
78%

冒頭章はベラスケス「侍女たち」の分析にこれを充て、鏡に映るだけの国王夫妻や画家・鑑賞者の視線の交錯を通じて、古典主義的表象がその主体を本質的に不在のまま成立させていたことを示す。この分析は本書全体を貫く表象と主体の関係という問題設定を提示する序章の役割を果たす。

言語の存在様態
75%

本書は結論部でマラルメらの文学に言及しつつ、表象の透明な媒体だった言語が近代に自律した対象となる過程と、エピステーメー全体の変動を映す指標としての言語の位置づけを扱う。言語が独自の重みを取り戻す動きは、人間という形象の不安定化と表裏の関係にあるとされる。

構造主義
68%

フーコーは本書で言語学・精神分析・民族学といった構造主義的な「反-科学」を、人間諸科学を脱中心化する力として位置づける。刊行当時は構造主義の代表作として受容されたが、フーコー自身はその分類に異を唱えた。