性の歴史I——知への意志
ミシェル・フーコー
抑圧ではなく「語らせる」権力
ミシェル・フーコーの『性の歴史I——知への意志』は、近代社会は性を抑え込んできた、という通俗的な抑圧仮説をひっくり返すところから始まる。彼が見るのは、禁止や沈黙よりも、むしろ性について語らせ、分類し、記録し、告白させる仕組みの増殖である。そのとき中心にあるのが言説だ。性は自然な衝動としてただ存在していたのではなく、医学、教育、司法、宗教の制度のなかで「こう語るべき対象」として切り出されてきた。フーコーが執拗に追うのは、性科学、告白、権力と知の関係が結びつくことで、欲望が真理の問題へ変換される過程である。つまり「あなたは何をしたか」ではなく、「あなたは本当は何者なのか」を語らせる回路ができあがる。彼は抑圧が存在しないと言うのではなく、権力の働きを禁止の語彙だけで理解するのは不十分だと言う。同性愛者や倒錯者といったカテゴリーが、歴史的に作られた主体類型として読まれる点も重要だ。ここでは権力は単に外から禁じる力ではない。人びとに自分自身を読み解かせ、内面を言葉にさせ、そこから逸脱や同一性を構成していく生産的な力として働く。本書が古びないのは、性の議論を道徳論から制度分析へ移し替えたからだ。
生を管理する近代のまなざし
本書の後半で輪郭を持つのが、生権力と生政治の構図である。フーコーは、個々の身体を訓練し矯正する規律権力と、出生率や健康や人口の動きを管理する人口管理とを、同じ近代権力の二つの極として読む。ここでセクシュアリティの装置が重要になる。性は快楽の私的領域にとどまらず、家族制度、学校教育、診療所、行政統計をまたいで、社会全体の生命を調整する接点へ押し上げられるからだ。正常化、主体の形成、権力の毛細管という視点も、この本では密接につながっている。学校でのしつけ、診察室での問診、家族内の監視のような微細な場面が、大きな法や国家装置と連続しているという見方が鋭い。近代社会は逸脱者を外に追放するだけでなく、名前を与え、診断し、観察し、自己申告させることで主体を作り出す。だからフーコーの議論は「権力はどこにあるか」というより、「どのように私たちの振る舞いの内側へ入り込むか」を問う。本書は性の歴史の序論であると同時に、近代社会が生そのものを統治可能な対象へ変えた仕組みを暴く理論書でもある。読後には、自由と抑圧の単純な二項対立では、現代の管理社会は見えないことがよくわかる。
参考資料
- 性の歴史I 知への意志 | 新潮社 - 性の歴史 I 知への意志 - Google Books - Michel Foucault | Stanford Encyclopedia of Philosophy - Michel Foucault | Britannica
キー概念(13件)
フーコーはセクシュアリティが抑圧されたのではなく、むしろ生権力の装置として増殖・管理されてきたと論じる。性は個人の身体管理と人口の生物学的調整の交差点として機能した。
本書でフーコーは、セクシュアリティが個人の道徳問題ではなく、社会全体の「種」としての生命力を管理する生政治の核心に位置していることを示す。
性科学(sexologie)という知の生産がセクシュアリティを「真実」として固定化し、医学・精神医学・人口学が性を権力の対象として構築した過程をフーコーは分析する。
本書の出発点であり、批判対象。フーコーは「私たちは本当に性を抑圧されてきたのか?」と問い直し、禁止ではなく言説化・管理こそが近代権力の本質だと反転させる。
フーコーは「アリアンスの装置」(婚姻・親族)に代わって近代に登場した「セクシュアリティの装置」が、家族・医学・教育・精神医学を通じて性を個人の深層真実として固定化したと論じる。
キリスト教の告解から近代精神分析まで、西洋文化において「性の真実を語らせる」制度が連続していることをフーコーは示す。性の告白が権力-知の回路に組み込まれている。
性に関する言説の爆発的増殖が19世紀に起きたとフーコーは論じる。沈黙や禁止ではなく、医学・法学・教育学・人口学等における言説化こそが近代における性の権力作用の中心だった。
性的「倒錯」や「変態」の医学的カテゴリー化は、性を罰する禁止法よりも、正常/異常の区分を通じて主体を内面から管理する正常化権力の典型例としてフーコーは分析する。
同性愛者・ヒステリー患者・変態者といった性的主体カテゴリーの歴史的出現を通じて、フーコーは「性同一性」がいかに権力によって構成された主体形態であるかを示す。
本書では生権力の個人的極として規律権力が位置づけられ、性的逸脱者(同性愛者・オナニー少年等)への医学的・教育的介入がその具体例として論じられる。
フーコーは「性の技法(ars erotica)」と対比させながら、西洋固有の「性科学(scientia sexualis)」が告白を真実抽出装置として利用し、権力と知を結合させた様式を分析する。
フーコーは「権力はどこにでもある」と述べ、性の管理が国家的禁止よりも医師・教師・家族・精神分析家という毛細管的ネットワークを通じて機能していることを示す。
セクシュアリティは快楽や道徳の問題であると同時に、国家の人口構成・労働力・軍事力に直結する問題として生政治の中心に置かれたとフーコーは分析する。