エピステーメー
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この概念を本でたどる
『言葉と物』で「エピステーメー」を読む
ミシェル・フーコー(渡辺一民 / 佐々木明訳)
本書はルネサンス・古典主義・近代という3つのエピステーメーを設定し、博物学・一般文法・富の分析、あるいは生物学・言語学・経済学など異なる学問領域が同一時代には共通の認識の布置に貫かれていたと論じる。エピステーメーの移行は進歩の蓄積ではなく断絶として描かれる。
この本とのつながりを見るエピステーメー(episteme)とは、ミシェル・フーコーが『言葉と物』で用いた概念で、ある時代の学問全体を下から支え、何が知として語られうるかを、その時代の学者たち自身にも意識されないまま線引きしている認識の規則・布置の総体を指す。個々の学説そのものではなく、博物学であれ経済学であれ、学説がそもそも成立するために先に敷かれている共通の認識の地盤を問題にする点に、この概念の独自性がある。フーコーはこの視座から、博物学・一般文法・富の分析、あるいは生物学・言語学・経済学といった一見無関係な学問領域が、同じ時代には共通の認識の布置に貫かれていると論じた。
無意識の規則としてのエピステーメー
エピステーメーは、ある時代の人々が共有する世界観や思想的立場を意味しない。むしろ何が観察対象になりうるか、何が真偽を問える命題として成立しうるか、どのような分類や比較が学問的に意味を持つかを、当の学者たち自身が気づかないまま条件づけている規則の総体だとされる。フーコーはこれを、学説の内容そのものを追う従来の思想史とは異なる水準の探究と位置づけ、考古学的方法によって掘り起こそうとした。地表に現れた個々の理論ではなく、その理論を生み出す地層の構造を記述する試みである。
三つのエピステーメーの布置
『言葉と物』はルネサンス・古典主義・近代という三つのエピステーメーを設定する。ルネサンスの知は事物同士の類似にもとづいて世界を秩序づけ、古典主義の時代には表象の秩序にもとづく分類の学——博物学・一般文法・富の分析——が同一の格子の上に並んだとされる。この時代、言語は思考をそのまま映し出す透明な道具とみなされていたが、近代に入るとその位置づけは大きく変わり、言語はそれ自体の歴史と法則を持つ厚みのある対象として立ち現れる(言語の存在様態)。生命・労働も同様の厚みを帯び、これに対応して生物学・経済学・言語学という人文諸科学の成立を見ることになる。このエピステーメーのもとで初めて、知る主体であると同時に知られる対象でもある「人間」という二重の存在が学の中心に立ち、フーコーはその人間もまた比較的新しい発明にすぎず、いずれ姿を消しうると論じた(人間の終焉)。
エピステーメーの移行と断絶
エピステーメーの移行は、知識が徐々に蓄積され洗練されていく進歩の物語としては描かれない。ある時代の認識の布置は次の時代へなだらかに接続するのではなく、ほぼそのまま失効し、まったく異なる規則の布置に置き換わる認識論的断絶として提示される。この見方は、科学史を発見の連続的な積み重ねとして語る通念への挑戦であり、同時にある時代の学問を後の時代の基準で「未熟」と裁く態度そのものを退けるものでもあった。
エピステーメー概念のその後
『言葉と物』の考古学は認識の布置という構造の記述に重心を置いていたが、フーコーは後の著作で権力の作動そのものへと関心を移し、知と権力の分析を展開していく。エピステーメー概念は当時隆盛していた構造主義と並べて語られることも多かったが、フーコー自身は特定の学派への帰属を明確には認めていなかったとされる。今日でもこの概念は、ある時代の知の限界と可能性を問い直す視座として参照されることがある。
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ミシェル・フーコー(渡辺一民 / 佐々木明訳)
本書はルネサンス・古典主義・近代という3つのエピステーメーを設定し、博物学・一般文法・富の分析、あるいは生物学・言語学・経済学など異なる学問領域が同一時代には共通の認識の布置に貫かれていたと論じる。エピステーメーの移行は進歩の蓄積ではなく断絶として描かれる。