主体の不在
CONCEPT → BOOK
この概念を本でたどる
『言葉と物』で「主体の不在」を読む
ミシェル・フーコー(渡辺一民 / 佐々木明訳)
冒頭章はベラスケス「侍女たち」の分析にこれを充て、鏡に映るだけの国王夫妻や画家・鑑賞者の視線の交錯を通じて、古典主義的表象がその主体を本質的に不在のまま成立させていたことを示す。この分析は本書全体を貫く表象と主体の関係という問題設定を提示する序章の役割を果たす。
この本とのつながりを見る主体の不在とは、誰が見て誰が見られているかという表象の構造そのものの中に、それを統べるはずの主体(見る者)の位置が空白として組み込まれているという事態を指す。ミシェル・フーコーは『言葉と物』の冒頭章をベラスケス『ラス・メニーナス(侍女たち)』の分析に充て、この事態を古典主義時代における表象一般の条件として提示する。
『ラス・メニーナス(侍女たち)』という舞台
画面には、大きなキャンバスに向かう画家自身、それを取り囲む女官たちと王女マルガリータ、犬や道化、そして奥の戸口に佇む従僕の姿が描き込まれている。画家が向き合うキャンバスは裏側しか見えず、そこに何が描かれているのかは鑑賞者には分からない。奥の壁の鏡には国王夫妻の姿がぼんやりと映り込んでいるが、この二人は画面のどこにも実体としては存在しない。画家が描いているのがまさにこの国王夫妻の肖像だとすれば、二人は本来、鑑賞者がいま立っている位置――画布の外、絵を眺めるこちら側――にいたはずだと考えられる。
誰が見て、誰が見られているか
この絵は、誰が見て誰が見られているかを一意に確定できない構造を持つとフーコーは論じる。画家は画布越しにモデルを見つめ、そのモデルの位置には本来国王夫妻がいたはずだが、同じ位置には今、この絵を見る鑑賞者が立たされている。鏡は不在のその像を代理として映し出すことで、消えた視線の痕跡だけを残す。戸口の従僕もまた、部屋に入ろうとしているのか立ち去ろうとしているのか判然とせず、画家・王女・鏡・鑑賞者の視線とともに、絵の内と外を横断して交錯し、どの一点にも収斂しない。
主体の不在という事態
問題は、この視線の交錯全体を統べているはずの主体――すべてを見渡し、絵全体の意味を保証する審級――が、絵のどこにも実体として描き込まれていない点にある。国王夫妻は鏡像としてしか、いわば像の像としてしか現れず、画家は自らが描く対象の位置を鑑賞者に譲り渡し、鑑賞者自身もまた代理の位置に立たされているにすぎない。表象はこうして自らの成立条件を饒舌に語りながら、その根拠となるはずの視点そのものを空白のまま宙づりにする。フーコーはこの構造を、古典主義的表象が主体なしに成立しうることの証左として読み解く。
古典主義的表象が開く問い
この分析は単なる絵画論にとどまらず、本書全体を貫く表象の秩序と主体の関係という問題設定を提示する序章の役割を果たす。古典主義のエピステーメーにおいては、表象こそが事物の類似や差異を並べ立てる場であり、それを認識する主体はあらかじめ前提とされる必要すらなかったとされる。近代以降の思考が表象の基盤に人間という主体を当然のように据えてきたのに対し、この絵が示すのはその基盤自体が歴史的に構築されたものにすぎないという逆説である。この不在は、後に人間という主体が表象の秩序の中心に据えられていく近代的布置への転換――人間の終焉で論じられる主題――を逆照射する伏線として機能している。
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ミシェル・フーコー(渡辺一民 / 佐々木明訳)
冒頭章はベラスケス「侍女たち」の分析にこれを充て、鏡に映るだけの国王夫妻や画家・鑑賞者の視線の交錯を通じて、古典主義的表象がその主体を本質的に不在のまま成立させていたことを示す。この分析は本書全体を貫く表象と主体の関係という問題設定を提示する序章の役割を果たす。