虚構の時代
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この概念を本でたどる
『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』で「虚構の時代」を読む
東浩紀
オタク系文化が隆盛した時期を性格づける外部理論として参照され、東自身の議論を歴史的な時代区分の中に位置づける補助線として用いられる。
この本とのつながりを見る借りてきた時代区分
「虚構の時代」は東浩紀の概念ではない。戦後日本の社会意識を区切るために社会学の側で用意された言葉で、『動物化するポストモダン』はそれを外部から借りて、オタク系文化の変遷を歴史のなかに置く補助線として使っている。誰の何を借りているのかを押さえておかないと、東自身の主張と混線する。
見田宗介から大澤真幸へ
語の起源は見田宗介にある。見田は戦後日本の感覚の変遷を、理想の時代、夢の時代、虚構の時代という三つの局面として描いた。理想が現実を導くと素朴に信じられた時期があり、それが夢に変わり、やがて現実そのものが虚構の手ざわりを帯びていく、という見立てである。
これを引き継いで区分を整理したのが大澤真幸で、1995年のオウム真理教事件を論じた『虚構の時代の果て』(1996年)では、戦後は二つに分けられる。45年から70年ごろまでが「理想の時代」で、現実を変えれば理想は実現するという信憑が働いていた時期。70年から95年ごろまでが「虚構の時代」で、理想がその力を失い、人々が虚構のほうへ現実感の重心を移していく時期である。ここで重要なのは、虚構の時代とは嘘の時代という意味ではないことだ。大きな物語がもはや本物としては機能せず、それと知られたうえでなお参照され続ける、という状態を指している。
東は何に使ったのか
東がこの区分を持ち出すのは、オタク系文化の隆盛期がちょうど虚構の時代に重なるからだ。70年代から90年代前半にかけてのオタクは、現実の代わりに虚構を選び取り、それが虚構であると承知したうえで本気で没入し、様式的なこだわりを積み上げていた。東はこの態度をコジェーヴ由来のスノビズムとして読む。つまり大澤の時代区分は、東の議論のなかで、スノビズムという行動様式に年代を与える役割を果たしている。
そのうえで東は、大澤が引いた線の先に自分の区分を継ぎ足す。95年以降を「動物の時代」と呼びたい、というのが本書第2章の提案である。虚構に本気で住むことすら要らなくなり、断片への欲求が直接に満たされていく段階。ここが東自身の主張であって、大澤の議論ではない。なお大澤自身はのちに95年以降を「不可能性の時代」と名づけている(2008年)。同じ切れ目に対して二つの異なる名前が提出されているわけで、どちらの名を採るかは、95年以降に何が起きたと見るかの違いに対応している。
時代区分を使うときの危うさ
年号で社会意識を切り分ける手つきは、便利であるぶん粗い。虚構の時代という語で覆われる四半世紀のなかには、当然そこに収まらない現象がいくらでもある。東もこの区分を証明の道具としては使っておらず、あくまで自分の観察に歴史的な位置を与えるための参照枠として扱っている。
それでもこの補助線が効いているのは、虚構と現実の関係が入れ替わっていくという長期の過程のなかに、オタク文化という一見特殊な現場を差し込めるからだ。大きな物語の失効を語る枠組み自体は、リオタール以降のポスト構造主義の議論として、浅田彰の『構造と力』などを通じて日本の批評にすでに定着していた。東の仕事は、その一般論を、具体的な消費行動の水準で確かめ直したところにある。
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隣の概念から、別の本へ
知脈でいま「虚構の時代」に結びついているのは『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』の1冊です。 ただしこの本のなかで隣り合う概念をたどると、別の本へ出られます。