構造と力
浅田彰
逃走という選択肢——浅田彰と1983年の衝撃
「逃げるのはカッコ悪い」という常識を、一冊の本がひっくり返した。1983年、浅田彰が出版した『構造と力』は、難解な現代思想の解説書であるにもかかわらず、哲学書としては異例のベストセラーになった。「スキゾ・キッズ」という言葉が流行語になり、バブル前夜の日本の若者が熱狂した。
スキゾとパラノ——社会への二つの関わり方
本書の核心にあるのがスキゾとパラノという対比だ。パラノは「妄想症」——一つの中心(会社、国家、イデオロギー)に執着し、そこに全てを収斂させようとする思考様式だ。スキゾは「分裂症」——中心を持たず、あちこちに逃散していく思考様式だ。
浅田はドゥルーズ=ガタリの哲学を援用しながら、当時の日本社会をパラノ的と診断した。「会社に忠誠を尽くし、上司の命令に従い、一点に集中する」——高度経済成長を支えた価値観だ。そしてスキゾ的な逃走の可能性を肯定的に論じた。反抗(パンク)も適応(サラリーマン)も、どちらも既存の構造に取り込まれる——なら第三の道として、逃げてしまえ。
逃走論——反抗でもなく適応でもなく
逃走論は単純な「逃げることへの賛美」ではない。ドゥルーズ=ガタリの概念では、逃走(フィット)は積極的な創造性を含む。支配的な構造から離れることで、その外側に新しい可能性が生まれる。
浅田が描いたのは、閉塞した日本社会から「外」へと向かう動きの肯定だ。海外に行く、異なる業界に転じる、常識的なキャリアを捨てる——これらは当時「逃げ」として否定的に見られがちだったが、浅田はそこに積極的な価値を見た。
リゾーム——ツリーとは異なる知の形
本書の最も影響力のある概念の一つがリゾームだ。ドゥルーズ=ガタリから借用したこの概念は、地下茎(タケノコの地下部分のような)を比喩にした、ツリー(木)とは異なる構造を指す。
ツリーは根があり、幹があり、枝に分かれる——中心から周辺へという階層的な構造だ。リゾームは根でも幹でも枝でもない。どこからでも伸び、どことでも繋がる。切断されても別の場所から再生する。インターネット、都市の路地、学際的な知の形——リゾーム的な形状はツリー型の知に代わる可能性として提示された。
ポスト構造主義——構造を解体した後に
本書が紹介した思想の流れがポスト構造主義だ。レヴィ=ストロースの構造主義が「人間の思考には普遍的な構造がある」と主張したとすれば、ポスト構造主義はその構造の固定性を問い直す。
フーコーは権力が知識の構造を作ることを示し、デリダは意味が常に延期されることを示し、ドゥルーズは差異そのものを思考の出発点にした。浅田はこれらを日本語で整理し、当時の日本の読者に届けた。1983年の日本で、フランス現代思想のダイジェストが若者に届いた——その事実自体が文化史的な出来事だった。
差異と反復——同一性より差異を
ドゥルーズの哲学の核心がこの書名だ。西洋哲学はプラトン以来、同一性(同じものを同じと見る能力)を基礎に置いてきた。ドゥルーズはこれを反転させ、差異と反復——同一性は差異の後に来る抽象だと主張する。
リゾームは差異の哲学の空間的表現だ。中心のない繋がりの網は、差異を抹消して同一性に向かうのではなく、差異を保ちながら繋がる。この思想は、均質化への抵抗として読まれた。
本書は解説書として書かれたが、思想的主張を内包する。浅田の文体は速く、切れが良く、難解な概念を「これはこういうことだ」と断言する。その切断の鮮やかさが、読者に「分かった気がする」快感をもたらした。批判もある——簡略化しすぎで誤解を招くという批判だ。しかし1980年代の日本に現代思想の問いを持ち込んだ功績は大きい。
ポスト構造主義の遺産——何が残ったか
浅田が紹介した思想家たちは今も読まれ続けている。フーコーは権力と知識の関係分析として、ドゥルーズは差異の哲学として、デリダはテクスト理論として、それぞれの領域に根付いた。日本では、浅田の仕事が現代思想を「若者が読める言語」で書くという実践の先例になった。
1980年代後半から90年代にかけて「ニューアカデミズム」と呼ばれたこの文化現象は、バブル経済と並行して起きた知的な過剰への欲求だったかもしれない。しかしリゾーム的な思考——中心なき繋がり、多方向への逃走——は、インターネット時代になってより現実的な輪郭を持った。ハイパーリンク、SNSの広がり、専門の境界を越える知の流通——これらはリゾームの現実化だとも読める。本書は80年代の文書だが、その問いは今も生きている。