大きな物語の凋落
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この概念を本でたどる
『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』で「大きな物語の凋落」を読む
東浩紀
本書は1970年代以降のオタク系文化の変遷を、この凋落が日本社会に与えた影響の具体例として第1章冒頭に位置づけ、以降の議論全体の前提とする。
この本とのつながりを見る社会をひとつに束ねていた筋書きが効かなくなる
「なぜそれをするのか」を最後まで遡ったとき、答えを引き受けてくれる大きな筋書きが近代にはあった。理性は進歩する、歴史は人間の解放へ向かう、国民は共通の運命を生きている。ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』(1979年)で指摘したのは、この種の包括的な物語(グラン・レシ)がもはや人々の信を得られなくなったという事態だった。彼はそれを「メタ物語への不信」と呼ぶ。大きな物語の凋落とは、価値観の中身が別のものに入れ替わることではない。個々の知識や実践を上から正当化していた審級そのものが止まり、正当化がそれぞれの小さな領域の内側でしか成り立たなくなることを指している。
この診断は1980年代の日本にポスト構造主義の流行とともに輸入され、浅田彰『構造と力』などを介して批評の共通語彙になった。近代が立てた統一的な人間像そのものへの疑いという点では、フーコーの人間の終焉とも地続きの議論である。ただしこの語彙は、時代の気分を名指すだけの標語としても大量に消費された。
東浩紀は凋落を出発点として使う
『動物化するポストモダン』で東浩紀がやるのは、この抽象的な診断を日本社会の年表と具体的な消費行動の水準へ降ろすことだ。東は大きな物語の凋落を1970年代を境とする日本社会の変化として置き、オタク系文化がまさにその時期に成立したことを重ねる。オタク文化は凋落の副産物であり、同時にその後の社会を先取りした実験場だ、という位置づけである。
時期の区切りには外部の理論が使われる。社会学者・大澤真幸が戦後日本を「理想の時代」(1945〜70年)と「虚構の時代」(1970〜95年)に分けたのを受けて、東は1995年以降を「動物の時代」と呼ぶ。凋落は一点で完了する事件ではなく、段階を踏んで進む過程として描かれる。
空いた穴に何が入ったか
東の見立てで重要なのは、大きな物語が失われても人はいきなりそれなしで済ませられるわけではない、という点だ。凋落のあとには、失われたものの代用が調達される時期がしばらく続く。1990年代になると、その代用すら手放される。つまり本書における「大きな物語の凋落」は結論ではなく前提であり、そこから先の空白に何が流れ込んだのかを記述することに議論の重心がある。
凋落という診断そのものには異論もある。ナショナリズムや宗教的な統合が退場しなかった以上、大きな物語は形を変えて存続しているという見方は根強い。ただ東の議論の射程は、凋落の当否を裁定することではなく、少なくともオタク系文化という現場では統合的な物語への参照が実際に不要になった、という観察の側にある。
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この概念を扱う本(4冊)
浅田彰
プレモダン・モダン・ポストモダンを図式化し、社会を統べる超越的な中心が失われて資本主義の自己準拠的な運動だけが残る位相を描く。1983年の刊行で、凋落したあとの世界の見取り図を日本の読者に広く行き渡らせた一冊。
テオドール・アドルノ、マックス・ホルクハイマー
理性の進歩という啓蒙の物語が、進行するほど神話へ退行していく過程を内在的に追う。リオタールの語彙は使わないが、近代を統合してきた物語が自ら信憑性を失う機構を先に描いている。
トーマス・クーン
科学が真理へ累積的に近づくという進歩の像を退け、通約不可能なパラダイムの交代として科学史を描き直す。理性の進歩という物語を科学の内側から解体した仕事。