知脈

リゾーム

rhizome根茎

木には幹があり、枝があり、根がある。すべては一つの起源から放射状に広がる階層構造だ。私たちの思考の多くはこのツリー型に染まっている——国家→地方→市町村、属→種→個体。リゾームとはこの構造への根本的な異議申し立てだ。ドゥルーズとガタリが千のプラトーで提唱したリゾームは、始まりも終わりも中心も持たない、地下茎のように横断的に広がる結節の束だ。ジャガイモの塊茎や菌類の菌糸体が単一の「根」なしに地下を広がるように、知識・権力・欲望は階層なしに接続しうる。

ツリー型思考への批判

ツリー型の思考はどこかに「根」を求める。原点、起源、基盤——すべての思想はここに収斂するという還元主義だ。フロイト的な無意識の「根」としてのオイディプス・コンプレックス、国家の「根」としての主権者、意味の「根」としての超越的シニフィエ。ドゥルーズとガタリはこうしたツリー型の知を根本から問い直した。リゾームには特権的な点も起源もない。あらゆる点が他のあらゆる点と結びつきうる。リゾームは6つの原理によって定義される——接続の原理(どの点も他のどの点とも接続できる)、異質性の原理(異質な要素の接続)、多様性の原理(単位を持たない多様体)、非意味的切断の原理(どこでも切断・接続が可能)、地図製作の原理(模写ではなく実験的な地図)、貼り付けの原理(別の場所に貼り付け可能)。

浅田彰が開いた日本語の扉

構造と力で浅田彰はリゾームを日本の読者に独自のやり方で紹介した。浅田の関心は、1980年代の日本社会の硬直した「パラノ」的構造——大企業・官僚制・受験競争——への批判に重ねることだった。リゾームはツリーへの逃走路として、スキゾとパラノ的な連接の様式として提示された。ドゥルーズとガタリの原典とは微妙に強調が異なるが、それがまさにリゾーム的だとも言える——同じ概念が異なる文脈で異なる接続を生む。浅田の「スキゾ・キッズ」論は当時の若者文化と哲学をリゾーム的に接続した実践そのものだった。

デジタル時代の試練

インターネットはリゾームの技術的実現のように見えた。中央サーバーなしに、あらゆるノードが接続しあうアーキテクチャ。しかし実際のウェブはGoogleやFacebook中心のツリー型に収束してしまった。リゾームの理念と現実の落差は、脱領土化と再領土化が常にセットで起きるというドゥルーズ自身の警告を体現している。リゾームは達成すべき理想ではなく、ツリー化への抵抗の姿勢として理解すべきだ——この読み方は今日のプラットフォーム独占問題を考えるうえで示唆に富む。

インターネット時代のリゾームと新たな問い

リゾームという概念は、インターネットの登場によって新たな意味を帯びた。ウェブのハイパーリンク構造、P2Pネットワーク、分散型台帳技術(ブロックチェーン)は、リゾームが描いたネットワーク型組織の技術的実現として語られることが多い。しかしドゥルーズとガタリが描いたリゾームは、単なるフラットなネットワークではなく、中心も周縁もなく、どの点からでも他の点へ接続できる構造だった。実際のインターネットは、プラットフォーム企業というハブを中心に再ツリー化している側面もあり、リゾームの理念とは乖離している。

リゾーム的思考が提起する問いは、知識の構造に関わる。百科全書的な知識は木の構造(根——幹——枝——葉という階層)として組織されてきた。しかしリゾーム的知識は、分野横断的な接続や、異質な概念同士の予期しない出会いから新たな意味を生み出す。学術的な専門分化が進む現代において、リゾームは学際的思考の認識論的モデルとして機能する可能性がある。

リゾームと関連する脱領土化と再領土化は、ネットワークが絶えず拡張・縮小・変容する動態を捉える。スキゾとパラノの対比においては、リゾームはスキゾ的な欲望の流れが自由に走る場として位置づけられる。学際的思考は、リゾームの哲学的な含意を現代の知識実践に応用しようとする試みとして読むことができる。

この概念を扱う本

概念ネットワーク

線の太さは共通する本の数を表しています。ノードをクリックすると概念ページに移動します。

この概念を扱う本(2冊)

千のプラトー
千のプラトー

ジル・ドゥルーズ

100%

ドゥルーズ=ガタリはリゾームをツリー型(階層的・二分法的)思考への対抗概念として提唱した。

構造と力
構造と力

浅田彰

90%

浅田はリゾーム的な思考を、支配的なツリー構造を超える知の様式として紹介した。