知脈

配置

assemblageアジャンスマン複合体

一頭のオオカミではなく、狼の群れを——ドゥルーズとガタリはこう言う。単一の統一された存在ではなく、複数の力が一時的に接合した集合体。これが配置(アジャンスマン、agencement)だ。配置は固定したアイデンティティを持たない。機能するのは要素の性質ではなく、要素間の接続関係だ。同じ要素でも接続の仕方が変われば、異なる配置になる。

配置を定義する二つの軸

千のプラトーの中でドゥルーズとガタリは配置を二つの軸で分析する。一つは「内容の配置」(身体・行動・情念)と「表現の配置」(言語行為・記号)の軸。もう一つは「領土化の配置」(安定した回路)と「脱領土化の尖端」(逃走線)の軸。この二軸で切られた空間の中で、あらゆる配置は分析できる。発話行為(「お前を夫とします」という牧師の発言)は単なる言葉ではない——それは社会制度・儀式・身体・感情が接合した配置の作動だ。言葉が現実を変える力は、配置全体の力だ。

リゾームとの関係

リゾームが空間的なイメージなら、配置は機能的なイメージだ。リゾームは無中心の横断的接続を描き、配置はその接続が「何をするか」を描く。言語と身体が接合して発話行為の配置を作り、法律と身体が接合して規律の配置を作る。脱領土化と再領土化は配置の変容として理解できる——配置が解体されると脱領土化が起き、新たな要素と接合すると再領土化が起きる。

アクターネットワーク理論との共鳴

配置という概念はSTS(科学技術社会論)で独自の発展を遂げた。Bruno Latourのアクターネットワーク理論(ANT)は配置論と親戚関係にある。人間と非人間(機械・制度・自然)が接合して作動するネットワークとして社会を見る視点だ。スマートフォンのカメラ機能は人間の目・SNS・アルゴリズム・プラットフォーム企業・広告市場が接合した配置だ。この配置の中で、「撮影する主体」は誰(何)なのか——人間なのか機械なのか。配置の概念は、主体と客体、能動と受動の境界を問い直す。

配置の政治学:集団的行為能力の分析

ドゥルーズとガタリの「配置(アジャンスマン)」概念は、「なぜある集団は集団的な行為能力を発揮できるのか」という問いへの独特の答えを提供する。配置は人間的な要素(欲望・言語・身体)と非人間的な要素(技術・物質・記号)が特定の状況で結びついて形成される機能的な組み合わせだ。例えば「封建的な配置」は土地・農民・武士・法的文書・農業技術・宗教儀式などが特定の関係で結びついた歴史的な構成として理解できる。その配置全体が変化することで、封建制から近代へという転換が起きる。

デジタルプラットフォームという配置を考えると、スマートフォン・アルゴリズム・ユーザーデータ・広告モデル・ユーザーの習慣・法規制といった異質な要素が結びついて形成された特定の機能的配置として分析できる。この配置が何を「可能にし」何を「不可能にするか」を問うことで、プラットフォーム経済の権力構造が見えてくる。配置の変容——例えばオープンソースや分散型技術の台頭——は、この権力構造の組み替えの試みとして読める。

配置は器官なき身体から組織化が生まれる中間的な状態として理解できる。脱領土化と再領土化は配置の不安定化と安定化の動態を記述する。リゾームは水平的な配置の空間論的モデルとして、階層的な樹木型組織とは異なる配置のあり方を示している。

この概念を扱う本

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この概念を扱う本(1冊)

千のプラトー
千のプラトー

ジル・ドゥルーズ

85%

千のプラトーでは配置が社会・言語・身体などあらゆる現象を分析する基本概念として機能する。