知脈

脱領土化と再領土化

deterritorialization and reterritorialization

あらゆるものは流れている——ならば「留まること」はどういう意味を持つのか。脱領土化とは、固定した場所・機能・意味から逸脱し、潜在的な流れへと開かれるプロセスだ。再領土化とは、その流れが再び特定の形に固定されるプロセスだ。この二つは常にセットで動く。解放は常に新たな束縛を生む——それがドゥルーズとガタリの洞察の核心だ。

千のプラトーの核心概念

千のプラトーでドゥルーズとガタリは、脱領土化/再領土化を資本主義分析の基本軸に置いた。封建制度から資本主義への移行は、土地(領土)に縛られた農奴が脱領土化され、「労働力」という抽象的な流れへと解放されるプロセスだ。農奴は領主の土地から解放された——しかし資本主義はすぐさまこの流れを再領土化する。工場・賃金・労働市場というシステムに、今度は「自由な」労働者として縛り直す。解放は常に新たな束縛の序幕だ。これを悲観的に読むのではなく、運動のサイクルとして理解することが重要だ。

音楽・芸術での展開

ドゥルーズとガタリは音楽と領土化の関係を詳細に論じた。「リトルネロ」(繰り返しのメロディー)は領土の創出だ——子どもが暗闇の中で歌うとき、音楽が「ここ」という場所を作る。クラシック音楽の形式は高度に再領土化された領土だ。しかしジョン・コルトレーンのフリージャズや、ケージの偶然音楽は脱領土化の実践だ。そして新たなジャンルや様式として再領土化される。リゾーム的な接続とスキゾとパラノの動態が、ここで具体的な美学の問いと出会う。

現代社会での展開

この概念の射程は広い。グローバリゼーションは国境という領土からの脱領土化であり、同時にグローバル市場・多国籍企業・国際法による再領土化だ。インターネットは情報の脱領土化をもたらしたが、プラットフォーム企業が再領土化した。リゾームの理念が常に危険にさらされるのは、この不可避的な再領土化の力があるからだ。ドゥルーズとガタリの洞察は、固定化を「自然」とする思想に対して、あらゆる固定は暫定的であり、変化の潜在性を常に内包するという感覚を与える。それは絶望ではなく、継続的な批判と実験への招待だ。

脱領土化の政治:境界を溶かすこと

ドゥルーズとガタリが「脱領土化」で問題にしたのは、単なる地理的な移動ではない。それは意味の領域(言語・記号・価値の秩序)、社会的な領域(役割・規範・制度の秩序)、欲望の領域(欲求・感情・行動の秩序)における「固定化された配置」が流動化し、再構成される過程だ。移民が母国語を失い新言語を獲得する過程、企業が既存のビジネスモデルを解体してデジタル化する過程、社会規範が変化して以前は逸脱とされた行動が正常化される過程——これらはすべて脱領土化と再領土化のダイナミクスとして読める。

グローバル化という現象は、経済・文化・情報の流れが国家という「領土」を超えて展開する大規模な脱領土化として理解できる。しかしグローバル化は同時に、超国家的な資本の論理という新たな再領土化のプロセスでもある。インターネットが「情報の自由な流れ」という脱領土化の夢を実現したように見えながら、実際には数社のプラットフォーム企業に再領土化されているという現象も同じ論理で分析できる。

脱領土化と再領土化はリゾームの空間論的な表現として理解できる——リゾームが水平に広がる構造なら、脱領土化はその水平的広がりの動態的な記述だ。スキゾとパラノの対においては、スキゾ的な欲望の流れが脱領土化の力として、パラノイア的な回収が再領土化の力として機能する。配置(アジャンスマン)の概念は、脱領土化と再領土化の間に一時的に形成される安定した構成として理解できる。

この概念を扱う本

概念ネットワーク

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この概念を扱う本(1冊)

千のプラトー
千のプラトー

ジル・ドゥルーズ

95%

ドゥルーズ=ガタリは資本主義・芸術・政治を脱領土化/再領土化の運動として分析した。