多重人格
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この概念を本でたどる
『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』で「多重人格」を読む
東浩紀
第3章のタイトル概念の一つで、統一的な近代的自我が解体した後のオタク的主体・キャラクター消費のあり方を説明するモデルとして超平面性と並べて論じられる。
この本とのつながりを見る病名としてではなく、時代が求めたモデルとして
『動物化するポストモダン』第3章の題に置かれたこの語を、臨床の話として読むと必ず取り違える。東浩紀の関心は解離性同一性障害の症例そのものではなく、なぜ1990年代の文化がこのモデルをこれほど強く求めたのか、という点にある。
東はまず事実関係を押さえる。この障害の報告は1950年代以前にはほとんどなく、今も北米以外では症例が少ない。1970年代のアメリカで患者が急増し、1980年代に精神医学の専門家団体によって公式に認められ、1990年代の日本では小説や映画の題材として広く知られるようになった。実際に治療を必要とする患者がいる以上その実在は疑えないが、歴史が浅く地域的にも偏っているぶん、それを生み出した社会的要因の説明を退けにくい。東は科学哲学者イアン・ハッキングを参照して、多重人格は医学的現象というより20世紀後半の文化的な「運動」として理解するほうが容易だと述べる。報告と作品が急増したのは精神医学が急に進歩したからではなく、社会の側が多重人格型のモデルを求めているからだ、というのが東の見立てである。
そのモデルの核心にあるのは記憶の部分的な断絶だ。複数の人格が区別されるのは、それらのあいだに記憶の切れ目があるからである。東はダニエル・キイスの著書で知られるビリー・ミリガンの言葉を引く。どこかで何かをしていたと思ったら突然別の場所にいて、時間が経ったことは分かるのに何が起きたかは分からない、という経験である。ただし東が重視するのは、その断絶が決して完全ではないことだ。交代人格どうしは互いにとって完全な他者ではなく、記憶や習慣を断片的に共有する部分的な他者であり、階層関係を持つことすらある。
ノベルゲームを遊ぶ主体の構造
この中途半端さが、東の議論では消費の現場と重なる。ノベルゲームの消費は二層でできている。プレイヤーは分岐ごとに別の運命を生き、そのつど主人公の別の側面へ同一化する。分岐Aの人格はヒロインAと恋に落ち、分岐Bの人格はヒロインBと恋に落ちる。他方で同じプレイヤーは、システムを解析し画面を断片へ分解して、それらの運命すべてを関係づける視点も持っている。東が前章で「解離」と呼んだ、二つの水準の矛盾なき共存である。目の前の分岐を独立した物語として読みながら、過去に別の分岐を遊んだ記憶が部分的によみがえる――その構造は、交代人格の生き方と形が似ている。
東が長く分析するのが菅野ひろゆき監督の『YU-NO』(1996年)だ。主人公は並行世界を移動するたびに記憶を部分的に失う。道具は持ち越せるのに記憶だけが失われるのは設定として不整合だが、東はこれを制作上の失敗ではなく、分岐の内側と外側に同時にいなければならない主体の像として読む。父の失踪を追う設定は大きな物語の喪失の寓意であり、すべてのヒロインを攻略した末に父と再会できるという構造は、交代人格をすべて意識させて統合する治療の手続きに対応する、とまで東は書く。
押さえておくべきなのは、東がオタクを病理として扱っていないことだ。ここで論じられているのは、統一された近代的自我をもう前提にできなくなったあと、人が自分をどんな形でやりくりしているかというモデルである。その意味でこの議論は、アイデンティティの消失や主体の不在といった、近代的主体を疑う思想の系譜と問題を共有している。違うのは、東がそれを抽象的な人間像としてではなく、分岐を行き来する画面の前の具体的なふるまいとして書いた点にある。自己の問題は、ここでは哲学の主題であると同時に、消費の設計の問題として現れている。
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この概念を扱う本(3冊)
カール・グスタフ・ユング
無意識の内容は自我から独立した自律的な人格として現れると論じ、影やアニマ、トリックスターといった元型を通じて、心が単一の主体ではなく分割されうる複数の部分人格からなることを示す。