心身二元論
心身二元論——精神と肉体は別物か、同じ物の二面か
「痛みを感じるのはどこか」——脳神経科学者は「痛みは脳で処理される」と言う。しかし「ここが痛い」という体験は、脳細胞の活動と同じものか、それとも別の何かか。デカルトが17世紀に明示化した心身二元論は、今も未解決の哲学的問題の核心にある。
デカルト『方法序説』の心身二元論
デカルトはコギトの発見の後、こう論じた——思考する精神(res cogitans: 考えるもの)と、空間を占める物質(res extensa: 広がりを持つもの)は根本的に異なる実体だ。精神は思考の属性を持ち、分割できない。物質は延長(空間的広がり)の属性を持ち、分割できる。人間はこの二つの実体の結合体だ。
この二元論は解放的だった。自然(物体)は幾何学・機械論的に完全に記述できる——宗教的・目的論的説明を排除した科学的自然観の哲学的根拠だ。同時に、精神・魂・自由意志は物理法則と別の領域に置かれ、宗教との摩擦を避けた。
心身問題:二つの実体はどう相互作用するか
二元論の致命的な難問はすぐに現れた——精神と物体が全く異なる実体なら、どうして相互作用するのか。「悲しいと涙が出る」「意志で手を動かす」——精神が身体に作用し、身体が精神に影響する。この相互作用はどこで、どうして起きるのか。
デカルトの答えは松果体(脳の中央部の小さな腺)だったが、これは解決ではなく問題の先送りだ。物理的な松果体がどうして非物理的な精神に影響するのか。二元論はこの問いに答えられない。
西田幾多郎の挑戦
西田幾多郎は『善の研究』(1911年)で、デカルト的二元論への東洋哲学的応答を試みた。西田の出発点は「純粋経験」——主客が分かれる前の直接体験だ。「火が熱い」と感じる瞬間、まず「熱さ」の体験があり、その後「私が熱さを感じている」と主客が分かれる。純粋経験では精神と物質は分かれていない——デカルト的二元論はすでに分裂した後の思考だ、と。
西田の立場は「純粋経験一元論」——精神と物質を分ける前の、統一された経験が出発点だ。この立場は後の「場所の論理」に発展する。
レム『ソラリス』——他者の精神の問題
スタニスワフ・レムの『ソラリス』は心身二元論への SF的問いかけだ。ソラリスの海は人間の無意識から具体的な人物(幽霊)を物質化する。これは精神(記憶・欲望)が物質として現れる——デカルトが不可能と考えた精神から物質への変換だ。
さらにレムが問うのは「他者の精神を知ることは可能か」だ。ソラリスは人間を「理解」しようとするが、人間にはソラリスが何をしているのか理解できない。心身二元論は「私の精神は確実だが、他者の精神は推測だ」という問題も孕んでいる——「他者の心問題(problem of other minds)」だ。
現代:一元論の反撃
現代の神経科学・哲学は心身一元論(物理主義)に傾いている。「意識は脳の活動だ」という立場だ。しかし「クオリア(赤さの感じ・痛みの感じ)がなぜ物質的プロセスから生まれるか」という「意識の困難な問題」はまだ解決されていない。この問題こそ、デカルトが直感した分裂の現代的継承だ。
コギト・方法的懐疑とあわせて読むことで、デカルト哲学の三角形が完成する。純粋経験(西田)は東洋的一元論からの応答として読める。
概念ネットワーク
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この概念を扱う本(8冊)
ルネ・デカルト
思惟する実体(精神)と延長する実体(身体)の根本的区別
西田幾多郎
心身二元論を超えた主客合一という東洋哲学的応答
スタニスワフ・レム
思考する海は精神か物質か—心身二元論的問いのSF的探求
V・S・ラマチャンドラン
ラマチャンドランは幻肢・カプグラ症候群などの神経学的症例から、脳の物理的損傷が自己同一性・身体意識を変容させることを示し、心身問題を科学で照らす
スタニスラス・ドゥアンヌ
ドゥアンヌは意識の神経基盤(皮質点火)を解明することで心脳問題に実証的にアプローチし、心身二元論を科学で乗り越えようとする
ジュリオ・トノーニ
トノーニは意識の情報統合度(Φ)を用いて心脳問題に科学的にアプローチし、心身二元論の哲学的問いに神経科学の言葉で応えようとする
スティーブン・ピンカー
言語という心の働きを神経科学・遺伝学から解明しようとするピンカーのアプローチは、言語能力の脳への還元可能性という心身問題と交差する
マルコ・イアコボーニ
ミラーニューロンは共感・模倣・言語の神経基盤を示すことで、心の働きが脳の物理的プロセスと不可分であることを示し、心身二元論への挑戦を含む