知脈

エピステモロジー

認識論epistemology知の理論認知の枠組み

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精神と自然』で「エピステモロジー」を読む

グレゴリー・ベイトソン(佐藤良明訳)

本書ではエピステモロジーを「生物学の枝」として再定義しようとする試みが続く。誤ったエピステモロジー(世界の誤った地図)が個人・社会・生態系の病理を生み出すという実践的警告でもある。

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知るとは、そもそも何をしている行為なのか。エピステモロジー(認識論)とは、知識がいかにして成立するかを問う哲学の伝統的な領域を指す。だがグレゴリー・ベイトソンにとってこの問いは机上の哲学的パズルではなかった。生物がどのように自らの環境を知覚し、その内側に世界の像を描くのか——これは進化と生存に直結する、きわめて実践的な生物学の問題でもあるという。精神と自然というタイトルそのものが示すとおり、本書全体を貫くのは、認識論を人間の専有物から引き剥がし、あらゆる生物に共通する現象として捉え直そうとする試みである。

生物学の一分野としての認識論

西洋の伝統的な認識論は、デカルトやロックの系譜に連なる、もっぱら人間の知性を対象とした哲学の一分野だった。ベイトソンはこの枠組みを覆す。すべての生物は、意識するとしないとにかかわらず、自分がどのような世界に住み、何を情報として受け取るかについての、暗黙の前提の体系を持っているはずだと彼は考えた。それは神経系の配線に、身体の構造に、行動の習慣にすでに刻み込まれている。カエルの眼が特定の刺激にしか反応しないように作られていること自体が、すでに一つの認識論だとベイトソンは言う。免疫系がどの分子を「自己」とみなし、どの分子を「異物」とみなすかを決めていることも、同じ発想の延長線上にある例と言えるだろう。こうした認識論が働くのは、力や質量が支配する物理の世界ではなく、差異と関係が意味を持つクレアチュラとプレロムでいうクレアチュラの領域に限られるとベイトソンは論じる。

誤った地図が生む病理

エピステモロジーは抽象的な認知理論にとどまらない。ベイトソンにとってそれは実践的な警告でもあった。ある文化や個人が世界について抱く前提——自己は環境から独立して制御する主体である、意識だけが精神のすべてである、といった認識論——が誤っていれば、その誤りは必ず現実の破綻として現れる。アルコール依存症者が「意志の力さえあれば酒に勝てる」と信じ続けるほど、かえって深く依存に沈み込んでいく逆説を、ベイトソンは自己と世界を切り離すデカルト的な認識論の病理として読み解いた。同じ構造は、自然を征服し支配すべき対象とみなす発想にも、際限のない軍拡競争にも見出されるとされる。多くの場合その根には、ある階層に属する規則を別の階層に誤って適用してしまう混同があり、この論点は論理階型の議論と深く結びついている。地図を領土そのものと取り違えるとき、生物も社会も生態系も病んでいく。

現代に受け継がれる問い

生物の知り方を問うベイトソンの企ては、彼自身の思考の中でも外でも受け継がれた。人が自分の認識論そのものを組み替える経験——世界の見方の前提を根底から更新する学習——は、彼が整理した学習のレベルの階層のなかでもとりわけ稀な、深い変化として位置づけられる。また、生物は既製の世界を内部に写し取るのではなく、身体を通じた環境との相互作用そのものによって世界を分節し意味を立ち上げるというエナクションの発想、そして身体化された心が展開する具現化された認知の議論は、ベイトソンが素描した生物学的認識論を別の語彙で引き継いだものと見ることができる。知ることは世界を写す受け身の作業ではなく、生物が生きながら世界を作り出す行為だという洞察は、いまも色褪せていない。

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精神と自然
精神と自然

グレゴリー・ベイトソン(佐藤良明訳)

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本書ではエピステモロジーを「生物学の枝」として再定義しようとする試みが続く。誤ったエピステモロジー(世界の誤った地図)が個人・社会・生態系の病理を生み出すという実践的警告でもある。