機械論批判
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この概念を本でたどる
『生物から見た世界』で「機械論批判」を読む
ユクスキュル / クリサート(日高敏隆訳)
本書は随所で反射学説を退け、行動は刺激に対する単なる物理反応ではなく主体の環世界に根ざす現象であることを繰り返し強調しており、本書全体の理論的な狙いの一つになっている。
この本とのつながりを見る生物の行動は、外から与えられた刺激に機械的に従うだけの反応連鎖にすぎないのか。20世紀初頭の生理学・動物心理学の主流は、この問いにためらわず「イエス」と答えていた。機械論批判とは、こうした反射学説的な生物観に対し、生物が独自の意味を汲み取りながら主体的に振る舞う存在であることを対置し、説明の枠組みそのものを退ける立場を指す。ユクスキュルとクリサートは生物から見た世界の随所でこの対決を仕掛けており、反射弧の理論では生物の行動を捉えきれないと論じることは、本書全体を貫く理論的な狙いの一つになっている。この対立の構図は、心や意識のはたらきを機械的過程にどこまで還元できるのかという、今日のロボット工学や認知科学の論争にもそのまま重なる。
反射学説が描いた「刺激に従う機械」
20世紀初頭の生物学を覆っていたのは、生物を物理法則に従順な装置とみなす発想だった。デカルトが動物を魂なき機械と位置づけて以来、生理学は神経系を、刺激という入力を運動という出力へ変換するだけの伝達装置として描き続けてきた。走性説は光や化学物質への接近・忌避を単純な物理反応として説明し、条件反射の研究は学習された行動さえも刺激と反応の結びつきの強化として記述する。この枠組みでは、生物の内側に何が映っているかを問う必要はない。ユクスキュル自身も出発点は生理学者であり、筋肉や感覚器の機械的な仕組みを研究するところから出発した人物だった。だからこそ彼の批判は外側からの素朴な反発ではなく、機械論の内部を知り尽くした上での方法論的な転向だったとされる。
ダニは反応する装置ではない
この常識に対し、ユクスキュルはダニの環世界を突きつける。酪酸のかすかな匂いという単一の合図を何年も飢えたまま待ち続け、それが訪れた瞬間だけ木の上から獲物めがけて落下するダニの行動は、一見すると単純な反射の見本のようにも映る。しかし反射学説は、身の回りを埋め尽くす無数の物理刺激のなかで、なぜその一つだけがダニにとって意味を持つのかを説明できない。ユクスキュルが描いたのは、何を知覚し、それにどう働きかけるかという二つの働きが機能環としてダニ自身の内側で結び直されているという構造であり、そこにあるのは外部から強制される機械的な伝達経路ではなく、主体の側から編み出された意味の回路にほかならない。
主体を消さない生物学へ
機械論批判が最終的に擁護するのは、生物の主体性という、当時の生物学が方法論的に排除しようとしてきたカテゴリーである。刺激と反応の対応表さえ書き切れれば、主体の視点などという捉えどころのないものはもう要らない——機械論はそう考えていた。しかしユクスキュルは、その対応表自体が主体による意味づけを通じて初めて成り立つのだと主張し、生物学が出発点に据えるべき単位そのものを組み替えようとした。この転換はカントの認識論を生物学へ持ち込む試みだったとも評される。この立場は後年、生物を記号の解釈者として捉え直す生物記号論へと直接引き継がれ、フィードバックと情報の言葉で生命を語り直そうとしたサイバネティクスや、主体が自らに関わる世界を能動的に作り出すと説くオートポイエーシス・エナクションの議論とも、機械論の枠組みを問い直す一つの系譜として響き合っている。
この概念を扱う本
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この概念を扱う本(1冊)
ユクスキュル / クリサート(日高敏隆訳)
本書は随所で反射学説を退け、行動は刺激に対する単なる物理反応ではなく主体の環世界に根ざす現象であることを繰り返し強調しており、本書全体の理論的な狙いの一つになっている。