知脈

意味の担い手

Bedeutungsträger意味の運搬者意味付与

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この概念を本でたどる

生物から見た世界』で「意味の担い手」を読む

ユクスキュル / クリサート(日高敏隆訳)

本書では一本の木など一つの対象を複数の生物がそれぞれ異なる意味で経験する例を示し、対象が主体ごとに異なる「意味の担い手」になることを論じている。

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一本の木は、キツネにとっては身を隠す巣穴であり、フクロウにとっては見晴らしのよい止まり木であり、樹皮に潜り込む虫にとっては餌そのものであり、通りがかる人間にとっては木陰や建材の候補である。同じ木がこれほど違う顔を見せるのはなぜなのか。ユクスキュルとクリサートは生物から見た世界で、一つの対象はそれを知覚する主体との関係の中で初めて特定の意味を帯びるようになると論じ、この考え方を意味の担い手(Bedeutungsträger)と呼んだ。対象に意味があらかじめ内蔵されているのではなく、主体ごとに異なる意味が対象へと差し向けられる——この視点の転換は、環世界どうしがどう区別されるかという本書の議論全体を、もう一段深いところで支えている。

環世界論を支える「意味」という蝶番

環世界の理論は、生物種ごとに知覚できる世界とそこで働きかけられる世界が異なることを描き出した。だが知覚と作用がかみ合うためには、対象の側にも何かが対応していなければならない。ユクスキュルはこれを、対象が主体にとって持つ「意味」と呼んだ。石という対象は、歩く昆虫にとっては迂回すべき障害物という意味を帯び、休む鳥にとっては足場という意味を帯びる——同じ物体でも、主体が変われば担う意味はまったく別物になる。この意味こそが機能環を成立させる蝶番であり、対象は関係する主体の数だけ異なる意味の担い手になりうる、とユクスキュルは考えた。主体が世界を誤解しているのではなく、それぞれの主体にとって世界がそのつど正しく分節されている、というのがその含意だとされる。

一つの対象、無数の意味

本書でユクスキュルが繰り返し立ち返るのが、一本の木をめぐる思考実験だ。同じ木を、樹皮の下に潜る虫、幹を駆け上がる小動物、枝に巣をかける鳥、そのそばを通り過ぎる人間がそれぞれの流儀で経験するとき、そこに立ち現れる「木」はまったく別の対象になる。ある主体にとって木は栄養源であり、別の主体にとっては住処であり、また別の主体にとっては通り過ぎるだけの背景でしかない。木という物体は一つしかなくても、そこから汲み出される意味は主体の数だけ存在しうる。同じことは木に限らない。ひとつの部屋も、ひとつの野原も、そこに関わる主体が変われば、まるで別の場所として立ち現れるとされる。この思考実験は、「客観的にそこにある木」という発想そのものが、実は特定の主体の環世界を暗黙のうちに前提にしていることを浮かび上がらせる。

意味は関係の中でしか生まれない

意味の担い手という考え方は、世界を主体から独立した物の集まりとして捉える見方に対する異議でもある。対象そのものに性質はあっても、それが「何であるか」という意味は、主体との関係のなかでしか立ち上がらない。この発想は、のちに生物記号論が展開する「意味は生物と環境の関係のなかで生成する」というテーゼの先駆けと位置づけられている。物理的な力だけが働く領域と、意味や差異が働く領域を分けて考えたグレゴリー・ベイトソンのクレアチュラとプレロムという区別も、同じ問いの系譜に連なると考えられる。一本の木に主体ごとの意味の分岐を見たユクスキュルの視点は、生物学の枠を超えて、意味とは何かという問いそのものを問い直し続けている。

この概念を扱う本

この概念を扱う本(1冊)

生物から見た世界
生物から見た世界

ユクスキュル / クリサート(日高敏隆訳)

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本書では一本の木など一つの対象を複数の生物がそれぞれ異なる意味で経験する例を示し、対象が主体ごとに異なる「意味の担い手」になることを論じている。