生物の主体性
CONCEPT → BOOK
この概念を本でたどる
『生物から見た世界』で「生物の主体性」を読む
ユクスキュル / クリサート(日高敏隆訳)
本書は単細胞生物から高等動物まで一貫して「主体」という語で生物を描写し、機械論的な生物学への対抗軸として生物の主体性を強調している。
この本とのつながりを見る生物は外界の刺激にただ反応するだけの精巧な機械なのか、それとも自ら世界を意味づける存在なのか。生物の主体性とは、あらゆる生物を受動的な反射装置としてではなく、自らの環世界を能動的に築き上げ、出会う対象に意味を与えていく「主体」——原語でSubjekt——として捉える生物観を指す。主体としての生物、あるいは動物主体論とも呼ばれる。単細胞の原生動物から高等動物、そして人間まで、ユクスキュルはこの一語を生物学の出発点に据え直した。環世界という概念そのものを成り立たせているのはこの生物観であり、本書全体を貫く最も根本的な主張でもある。
機械仕掛けの生物学への異議
生物を精巧なからくりとみなす発想は、動物機械論と呼ばれるデカルト以来の哲学的系譜にも重なるとされ、20世紀初頭の生理学や動物行動学でも、生物を複雑な反射弓の集合体として説明する機械論的な枠組みが有力だった。刺激が入力されれば定まった反応が出力される——そうした一方向の因果の鎖として動物を描く限り、そこに「経験」や「意味」が入り込む余地はない。ユクスキュルはこの機械論批判の立場に立ち、生物学が向き合うべきは物理・化学の法則にただ従う客体ではなく、自ら世界を経験し選び取る主体なのだと論じる。生物を機械と見るか主体と見るかという対立は、環世界という概念全体がどこに立脚するかを左右する分岐点でもあった。
ダニが選び取る「意味」
この主張を最も鮮やかに示すのが、ダニの環世界として描かれる例である。ダニは草の茎の先で長い歳月をじっと待ち続け、近づいた哺乳類の皮膚腺から漂う酪酸の匂いに反応して初めて身を落とす。周囲には光や音、無数の化学物質があふれているにもかかわらず、ダニにとっての世界はそのうちのごくわずかな信号だけに絞り込まれている。この選び取られた信号——意味の担い手——を軸に、知覚と行動が輪を描くように結びつくことで、その生物だけの世界が編み上げられる。対象に意味を与えているのは対象そのものではなく、選び取る主体の側なのだとユクスキュルは考えた。
単細胞から人間まで、断絶のない主体
見逃せないのは、主体という語が高等動物だけの特権として使われていない点だ。本書はアメーバのような単細胞生物にさえ、周囲から特定の刺激だけを選び取り反応するという意味での主体性を認め、複雑さの程度こそ違え質的な断絶はないという立場を貫いている。進化の系統樹を上るほど内面が豊かになるといった段階的な序列づけを、本書はあらかじめ退けているとも読める。神経系の有無や知能の高低によって「主体かどうか」の線引きをしない発想は、人間だけを特別扱いする伝統的な位階秩序にも、生物をすべて均質な機械とみなす還元主義にも与しない、第三の道を切り開こうとする試みだったと言える。
後世の思考に開いた回路
生物を意味の主体として描いたこの視点は、後の学問にも長い影を落とした。生物の営みを記号のやり取りとして読み解く生物記号論は、ユクスキュルのこの主体概念を源流の一つとする分野とされる。刺激と反応の連鎖だけで生命を説明し尽くそうとする発想は今日の情報科学にも形を変えて残っており、心や経験をどこまで機械的な処理に還元できるかという問いは、人工知能が意識を持ちうるかが論じられる現在にも通じている。生物の主体性という一見素朴な出発点は、生命と機械を分かつ境界線がどこにあるのかを、百年以上を経てなお問い直し続けている。
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ユクスキュル / クリサート(日高敏隆訳)
本書は単細胞生物から高等動物まで一貫して「主体」という語で生物を描写し、機械論的な生物学への対抗軸として生物の主体性を強調している。