超平面性
CONCEPT → BOOK
この概念を本でたどる
『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』で「超平面性」を読む
東浩紀
第3章のタイトル概念の一つとして、データベース消費が生み出す作品や画面表現に特有の質感を分析する枠組みに用いられる。
この本とのつながりを見る画面のうえで、深さが横並びになる
近代の知は、見えるものの背後に見えないものを想定し、そこへ遡ることを理解と呼んできた。東浩紀が『動物化するポストモダン』第3章で提出する「超平面性」は、その奥行きが平面のうえに並べ直されてしまう世界の手ざわりを指す。東自身の造語で、村上隆の「スーパーフラット」に影響を受けているが、英訳の訳注が明示するように両者は別物である。村上の語が作品の視覚的特徴から社会構造やコミュニケーションのあり方までを含む感覚的な言葉なのに対し、東のそれはポストモダンの記号世界の構造に限定された、はるかに狭い概念だ。
議論はウェブページから始まる。HTMLは本来、文書内の要素の論理的な関係を指定するもので、実際の見え方は閲覧環境に委ねられている。だから同じソースがOSやブラウザによって違って表示される。東はこれを欠陥ではなく、ウェブが印刷物とは別の論理で動いている証拠と見る。印刷された文字を読むとき、私たちは見えるものから見えない意味へ引き返す。ウェブページでは、ブラウザに映る画面も、テキストエディタで開いたソースも、どちらも見えている。可視が複数あり、しかも不可視の位置も安定しない。レイアウトの数値も、文字列の意味上の機能も、ソースを開けば具体的な記述として現れてしまう。表象の背後に隠れているはずのものが、環境を替えるだけで表に出てくるのだ。
東が挙げる具体例は自分のデスクトップの画面である。同じファイルが、描画ソフトが解釈した画像として、テキストとして、そして十六進表記のデータとして、三つのウィンドウに並んでいる。どれが真の姿かと問えば、実体はハードウェアに記録された電磁的なパターンでしかなく、三つはいずれもその解釈にすぎない。階層として説明することはできても物理的な根拠は薄い。だからこそ、それらは同じ画面上に並べられる。
この構造がポストモダンの世界像を映している、と東は言う。AがBを規定しBがCを規定するというツリー型の関係よりも、A・B・C・Dが同じ情報の読み込みとして並ぶ並列関係が選ばれる。ポストモダンの世界像として1980年代の日本でよく持ち出されたのは、浅田彰の『構造と力』を経由して広まったリゾーム(『千のプラトー』)のモデルだったが、東はそれを採らない。表層の記号が結びつき合うだけの世界ではなく、情報の層と読み込みの層からなる二層構造として捉えるほうが実態に合う、というのが東の判断である。
オタク文化でも同じことが起きている。個々のアニメや小説という作品、その背後の設定やキャラクター、さらにその背後の萌え要素という異なる階層の情報が、別のウィンドウを開くように並列に、等価なものとして消費される。だからGUIは便利な発明であるにとどまらず、この時代の世界像が凝縮された装置なのだと東は書く。
過視性――横滑りが終わらない
超平面的な世界は逆説を生む。不可視が次々に可視化されて同じ平面に並ぶからこそ、人は不可視を追いかけずにいられなくなる。論理的には層を遡っているのに、画面のうえではただ横滑りしているようにしか見えない。世界的に有名なサイトへも個人サイトへも同じ手軽さでリンクできるから、検索が終わる理由がどこにもない。カードのコンプリート、ギャルゲーの全分岐確認、二次創作の収集も同じ形をしている。
東はこの欲望の空転を「過視性」と呼ぶ。近代の超越は、小さな可視から大きな不可視へ遡行できることを前提にしていた。データベース型の世界では、不可視は可視になった瞬間にまた一つの小さな物語へ変わり、最終的な審級には決して届かない。落胆してまた次の不可視へ向かう、その終わらない横滑りが超平面的な世界を生きる者の運動である。
概念ネットワーク
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この概念を扱う本(2冊)
ジョン・バーガー
複製技術が絵画を本来あった場所と文脈から引き剥がし、他のイメージと並べて使われる情報に変えたと論じる。スーパーフラットの語も超平面性の議論もないが、イメージが階層を失って等価に並置される事態を、視覚文化の側から先に記述している。