擬態
CONCEPT → BOOK
この概念を本でたどる
『生物から見た世界』で「擬態」を読む
ユクスキュル / クリサート(日高敏隆訳)
擬態が「誰にとって」似ているかは見る主体の環世界に依存するという視点を示す例として取り上げられ、客観的な類似そのものではなく主体的な知覚こそが擬態を成立させると論じられる。
この本とのつながりを見るシャクトリムシの幼虫は小枝に、ナナフシは枯れ葉に、ある種のガの翅は猛禽の目に見える。擬態とは、ある生物が他の生物や周囲の環境に似た姿をとることで、捕食や被食において有利に働く現象を指す。ふつうこの現象は、色・形・模様がどれだけ精巧に元のモデルへ近づいているかという、似せる側の完成度の問題として語られる。だが生物から見た世界でユクスキュルとクリサートが差し出す問いはそれとは別のものだ。似ているかどうかを、そもそも誰が判定しているのか。この問いは擬態という一現象にとどまらず、色や形に宿る「意味」がどこから来るのかという、生物学全体を貫く問いにつながっている。
「似ている」を決めるのは見る側である
擬態する生物の姿がどれほど精巧であっても、それ自体は客観的な形態の一致にすぎない。写真に撮って並べ、輪郭や色味を測定して類似度を数値化する発想は、擬態の半分しか捉えていない。残りの半分は、測定する側ではなく、野外でその生物と実際に出会う捕食者や獲物の知覚のあり方に属している。ユクスキュルにとって、形態の一致が擬態として機能するかどうかは、それを見つけるはずの捕食者や、見逃すはずの獲物がどのような環世界を生きているかにかかっている。何を手がかりとして知覚し、その手がかりにどう反応するかという知覚世界と作用世界の組み立てが異なれば、同じ模様でも効き目はまったく違ってくる。鳥が枯れ葉を「餌ではないもの」として処理する知覚の仕組みを持たなければ、ナナフシがどれほど枯れ葉に似ていようと保護の効果は生まれない。似ているかどうかを測る物差しは、擬態する生物の外側にあるのではなく、それを知覚する主体の内側にある。
意味を借りて身にまとう
ユクスキュルの理論では、対象はあらかじめ意味を持って存在するのではなく、主体の知覚と行動が結びついたときに初めて意味の担い手として立ち上がる。捕食者はすでに「黄色と黒の縞模様は危険」「揺れる緑の細長い形は葉」といった意味づけの規則を、知覚の仕組みそのものとして備えている。擬態する生物が行っているのは、この規則を新しく書き換えることではない。すでにある規則が反応するはずの徴表を、自分の姿として差し出すことである。毒を持つ種に似せた無毒の種の擬態も、毒を持つ種どうしが似た模様を共有し合う擬態も、この意味では同じ構造を持つ。どちらも、自分自身の内にではなく、相手の知覚の仕組みの中にすでに用意されている意味を借りて身を守っている。この借用が成立するかどうかも、結局は借りる先の知覚の仕組み次第であり、擬態する側の設計の巧拙だけでは決まらない。
客観的な類似から主観的な知覚へ
この視点の転換によって、擬態は形態学の問題から知覚の理論の問題へと移される。重要なのは形質そのものの精度ではなく、見る主体の側にどのような知覚のルールが備わっているかである。擬態の巧みさを自然選択がどこまで磨き上げたかを測るだけでは、この現象の半分しか説明できない。生物どうしの関係を、両者の間で成立する徴表と意味のやり取りとして読み解くこの発想は、のちに生物界を記号の連鎖として捉え直す生物記号論の先駆けの一つとされる。擬態は本書全体を貫く中心的な主題ではないが、客観的な類似そのものではなく主体的な知覚こそが現象を成立させるという環世界論の核心を、具体的で親しみやすい形で示す例として選び取られている。
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ユクスキュル / クリサート(日高敏隆訳)
擬態が「誰にとって」似ているかは見る主体の環世界に依存するという視点を示す例として取り上げられ、客観的な類似そのものではなく主体的な知覚こそが擬態を成立させると論じられる。