知脈

自己(セルフ)のミーム的構成

memetic selfミーム的自己自我のミーム理論

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ミーム・マシン』で「自己(セルフ)のミーム的構成」を読む

スーザン・ブラックモア

本書後半の中心テーマ。ブラックモアは仏教哲学や現代の意識研究を参照しながら、自由意志・責任・意識の問題をミーム理論から再解釈する。「自己はミームのための乗り物である」という逆説的結論に至る。

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スーザン・ブラックモアは『ミーム・マシン』(1999年)で、「自己」や「私」という感じ方は脳のどこかに座る実体ではなく、無数のミームが自らを存続させるために作り上げた物語にすぎないと主張した。記憶・信念・習慣・口ぐせなど、次々と脳に住み着いたミームの集合体が「一貫した私」という感覚を演出し、その物語自体が強力なミームプレックスとして自らを守り、複製の効率を高めていく。この見方に立つと、自己とは人生の主人公ではなく、ミームが乗り換えていくための乗り物にすぎないことになる。

ミームの束が「私」を語る

ブラックモアの議論の核心は、内側に「見ている当人」(ホムンクルス)がいるという直感そのものを疑う点にある。複製子であるミームは脳内の記憶・注意・会話の機会を奪い合いながら自己複製を続け、相性の良いミーム同士が結託して一つのミームプレックスを形成する。「私はこう考える」「私はこういう人間だ」といった語りも、実際には互いを支え合うミームの束が生存戦略として紡ぎ出した物語にすぎず、語りの背後に語り手はいない、とブラックモアは説く。

仏教の無我思想と、ヒューム・デネットという先行者

ブラックモアはこの結論を仏教の「無我(アナッタ)」思想に重ね合わせて論じる。永続する魂や本質的な自己を認めず、瞬間ごとの経験の流れだけがあるとする仏教の伝統的な洞察と、ミーム論から導かれる「自己は物語にすぎない」という結論は響き合う、という指摘である。実のところ西洋哲学にも同様の懐疑は古くからあった。デイヴィッド・ヒュームは自己を内省しても知覚の束以外は見つからないとする「束理論」を18世紀に提示しており、現代の哲学者ダニエル・デネットも、意識を単一の司令塔ではなく並行して生成される草稿群の競合過程として描く「多重草稿モデル」を唱えている。ブラックモアの主張は、こうした系譜にミーム論という新しい機序を接ぎ木したものと位置づけられる。

自由意志と責任という難問

「私」が実体ではなく物語だとすれば、意志決定の主体はどこにいるのか。ブラックモアはここで自由意志という概念そのものに懐疑を向け、選択も「選択している私がいる」という感覚も、ミームが作り出す物語の一部にすぎないと論じる。この結論は道徳的責任や人格の同一性をどう基礎づけるかという問題を素通りできないため、哲学界でも強い異論を招いてきた。心の哲学の主流とは言い難い少数派の立場である点は踏まえておく必要がある。それでもブラックモアは、この居心地の悪い結論を避けずに引き受けることこそ誠実な態度だと主張し、「自己はミームのための乗り物である」という逆説的な一文に議論を収斂させる。

なぜ今、ミーム的自己なのか

SNS上でプロフィールや投稿を通じて「自分らしさ」を絶えず編集し続ける私たちの姿は、ブラックモアの議論を思わぬかたちで裏づけているようにも見える。拡散されやすい言葉づかいや態度、アイデンティティの型がミームとして選択され、それをうまく取り込んだ人ほど「自分らしい」発信ができるという逆説は、自己をミームの乗り物とみなす発想とよく重なる。実体としての自己を前提にせず、絶えず構成され続ける物語として自己を捉え直す視点は、意識研究やSNS時代のアイデンティティ論を考えるうえで、今なお挑発的な補助線であり続けている。

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ミーム・マシン
ミーム・マシン

スーザン・ブラックモア

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本書後半の中心テーマ。ブラックモアは仏教哲学や現代の意識研究を参照しながら、自由意志・責任・意識の問題をミーム理論から再解釈する。「自己はミームのための乗り物である」という逆説的結論に至る。