意識と注意
CONCEPT → BOOK
この概念を本でたどる
『ミーム・マシン』で「意識と注意」を読む
スーザン・ブラックモア
本書終盤でブラックモアは意識の「ハード問題」に踏み込み、自己が幻想であるならば意識の主体も存在しないという結論を示す。仏教の無我(anatta)概念とミーム理論の接点として論じられる。
この本とのつながりを見る意識とは何か、そして脳の情報処理がなぜ主観的な経験を伴うのかという問いは、哲学と神経科学の境界に横たわる難問である。この問いに対し、心理学者スーザン・ブラックモアはミーム・マシンの終盤で独自の角度から切り込む。哲学者たちが数十年かけて研ぎ澄ませてきた意識論の対立軸を、ミームという生き残りをかけた複製子の競争として読み替える試みである。
ハードプロブレムという切断線
1995年、哲学者デイヴィッド・チャーマーズは意識研究に大きな整理を持ち込んだ。知覚・学習・注意の焦点化・行動の制御・内的状態の報告といった脳の機能がどう働くかを説明する「イージープロブレム」と、その機能の遂行になぜ主観的な感覚(クオリア)が伴うのかを説明する「ハードプロブレム」を切り分けたのである。厄介なのは、注意そのものの仕組みはイージープロブレム側に分類されることだ。何にどう注意を向けるかは脳科学が原理的に解明できるが、注意を向けた対象がなぜ「経験」として感じられるのかは、機能の説明をいくら積み重ねても埋まらない溝としてチャーマーズは提示した。
デネットの反論
哲学者ダニエル・デネットは、この切断線そのものに懐疑的だった。著書『解明される意識』で示した「多重草稿モデル」によれば、脳内には感覚情報が一箇所に集まって「観られる」ような特権的な場所――デネットが「デカルト劇場」と呼び批判した場――は存在しない。感覚情報は複数の並行するプロセスによって絶えず編集され、そのつど暫定的な「草稿」が更新されていくだけだという。統一された「今、経験している私」という感覚は、編集過程が事後的につくる説明にすぎず、機能をすべて説明し尽くせば意識について語るべきことは残らないというのがデネットの立場である。
注意という競争の舞台へ
ブラックモアはこの対立に、心理学の古典を接続する。ウィリアム・ジェームズは1890年、意識を絶え間なく流れる「意識の流れ」として描き、その流れのどの部分が経験として立ち上がるかを決めるのが「選択的注意」だと論じていた。ブラックモアはこの発想をミーム理論と結びつける。すなわち注意とは、脳に飛び込んでくる無数の情報――その多くはミームという複製子である――が、限られた意識という席を奪い合う競争の舞台にほかならない。注意を勝ち取ったミームだけが記憶され、語られ、模倣を通じて次の宿主へ伝わっていく。デネットが「経験する私」を編集結果とみなしたように、ブラックモアは意識に上る内容そのものをミーム同士の生存競争が生んだ副産物とみなすのである。
無我という補助線
この見立てを、同書はさらに一歩進め、仏教の無我(アナッタ)の教えと重ね合わせる。自己とは記憶やミームの複合体(セルフプレックス)がつくり出す幻想であり、その幻想の背後に「経験している主体」を探しても見つからないとブラックモアは論じる。自己が幻想であるなら、意識の持ち主もまた存在しないことになる――西洋の分析哲学と、二千年以上前から自己の実在を疑ってきた瞑想の伝統とを、ミームという共通言語の上で並置する大胆な統合だ。もっとも、ハードプロブレムが実在する謎なのか説明の立て方の誤りにすぎないのかは、汎心論のような新しい立場を生みながら今も決着していない。
注意をめぐる競争は今も続く
SNSやレコメンドアルゴリズムが人間の可処分時間を奪い合う現代において、注意を「有限な資源をめぐる競争の舞台」と見るブラックモアの視点は、むしろ以前より切実さを増している。プラットフォームが最適化しているのは人間の理解や幸福ではなく、まさに「注意を勝ち取ること」そのものであり、脳内でミームが起こしていたはずの競争が、脳の外側にまで拡張された姿とも読める。意識のハードプロブレムに答えが出ていない以上、この問いは今も哲学の未解決課題であり続けるが、限られた注意を何が奪い合っているのかを問う視点は、情報過多の時代を生きる私たちにとっても無縁ではない。
この概念を扱う本
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この概念を扱う本(1冊)
スーザン・ブラックモア
本書終盤でブラックモアは意識の「ハード問題」に踏み込み、自己が幻想であるならば意識の主体も存在しないという結論を示す。仏教の無我(anatta)概念とミーム理論の接点として論じられる。