社会的構築主義
「ネイションは想像の産物だ」——アンダーソンがこう言ったとき、批判者はすぐに「では偽物だということか」と問い返した。アンダーソンの回答は明確だった。「想像された」は「偽造された」や「虚偽の」を意味しない。人種・民族・ジェンダーが社会的に構築されているということは、それらが「実在しない」ということではなく、それらが歴史的・社会的プロセスを通じて形成されてきたということだ——そしてその形成のプロセスを問い直すことができるということだ。
「想像された」は「偽造された」ではない
この重要な留保は社会的構築主義全体への誤解に対する答えでもある。ピーター・バーガーとトーマス・ルックマンが『現実の社会的構成』で展開した構築主義的社会学は、日常生活の現実が社会的相互作用を通じて構成されるというものだ。しかしバーガー&ルックマンが強調したのは、その「構成された現実」の強固さだった——社会的に構築されたものは、個人の意志で簡単に解体できるほど脆くない。
本質主義との対立が社会的構築主義の最も鋭い論点だ。本質主義は、特定のカテゴリ(民族、性別、人種)が変わらない本質的な特性を持つと主張する。構築主義はこれに対して、そのカテゴリ自体が歴史的に作られたものであり、異なる条件のもとでは異なる形を取りえたと主張する。アンダーソンのナショナリズム論はこの意味で構築主義的だ——「ドイツ人」という集合的アイデンティティは自然に与えられたものではなく、印刷資本主義・教育制度・戦争・制度設計を通じて形成されてきた。
しかし本質主義への批判は、構築されたものの「リアリティ」を否定するものではない。差異の構築という観点から見れば、人種が生物学的に実在しないからといって、人種差別の被害者にとってその差別の現実は消えない。社会的に構築されたカテゴリは、強力な物質的帰結を持つ現実として機能する。
バーガー&ルックマンとアンダーソンの対話
バーガー&ルックマンは「現実は社会的に構成される」というテーゼを日常的相互作用の分析から示したが、アンダーソンはこれをマクロな歴史過程として展開した。個人が相互作用のなかで現実を構成するように、歴史的な集合体は印刷メディアや行政制度を通じて「国民」という現実を構成する。
社会的条件付けの観点からは、社会的構築主義は単に「何が本当か」の問いではなく「誰が現実を定義できるか」という権力の問いでもある。フーコーの権力・知識論は構築主義の政治的側面を鋭くした——「正常」と「異常」の境界を引く権力、「科学的知識」の権威で人々を分類・管理する権力が、現実そのものを構成する。
構築主義の限界という問い
社会的構築主義は「全ての社会的カテゴリは構築されている」という命題に到達するとき、自己言及的な問いに直面する——では「社会的構築」という概念自体もまた構築されているのではないか。
虚構というカテゴリとの関係も微妙だ。近代小説の「虚構」はフィクションと承知で読むが、ネイションは「想像の産物」と承知で感情的忠誠を感じる。この差異はどこから来るか。ユヴァル・ノア・ハラリが「ホモ・サピエンスは共有した虚構を信じることができる」と論じるとき、虚構と構築された現実の境界は曖昧になる。アンダーソンの「想像された共同体は実在する」という主張は、この虚構と現実の境界問題に関わる。
主体の形成というアルチュセール的概念で見れば、社会的構築主義は主体そのものの形成プロセスを問題化する。「国民」というカテゴリに「呼びかけられる」ことで、私は「国民」として主体化される。この循環——主体が構造を作り、構造が主体を作る——は社会的構築主義の核心的なテーゼであり、アンダーソンの「想像」概念とも深く共鳴する。想像の共同体が示す洞察は、想像が現実を作るということ、そしてその想像の様式こそが問われるべきものだということだ。
この概念を扱う本
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この概念を扱う本(1冊)
ベネディクト・アンダーソン
アンダーソンの「ネイションは想像の産物である」という主張は社会的構築主義の代表的論点となった。ただし彼は「想像された」は「偽造された」ではないと強調し、共同体の「本物らしさ」はその想像の様式にあると論じる。