差異の構築
二つの集団のあいだに差異があることと、その差異が特定の意味を持つこととは別の問題だ。同じ「差異」が、ある文脈では多様性として称えられ、別の文脈では排除の根拠になる。差異の「構築」という概念は、この意味付与のプロセスそのものを問う。差異は客観的に存在するのではなく、誰がいつどのような目的で差異を産出・強調するかという歴史的プロセスとして理解される。
差異は発見されるのではなく生産される
「東洋と西洋は本質的に異なる」という命題は、発見されたものではなく産出されたものだ。エドワード・サイードが『オリエンタリズム』で示したのは、「東洋の特性」が実際の観察から帰納されたものでなく、東洋学という言説的形成体の内部で繰り返し自己参照しながら強化されてきた構築物だという点だ。差異の構築には「知識の蓄積」という外観があるが、実際にはすでに設定された差異のカテゴリを埋め、確認するための実践だ。差異と反復というドゥルーズの問いは哲学的文脈だが、差異がどのように機能し意味を持つかという問いはポストコロニアル批評とも共鳴する。差異の産出が反復されるとき、それは「自然」として見えてくる——この見えなくなる過程こそが批判的分析の対象だ。
植民地統治と差異の政治的利用
植民地統治は差異の構築を政治的に活用した。「分割統治」の戦略は、被植民地社会内部に宗教的・民族的・カースト的差異を強化し、分断を深めることで統治を容易にした。イギリスのインド統治は、ヒンドゥーとムスリムの差異を法的・行政的に制度化し、歴史上の分節とは異なる宗教的アイデンティティを前景化した。差異は「客観的事実」として管理されたが、その差異の境界線と意味は統治の必要に応じて引かれた。地理的決定論が地理的差異を必然化しようとする論理に対して、差異の構築論は差異の偶発性と政治性を問う。差異を「自然」と見せることが、それを維持する最も効率的な方法だ。
ドゥルーズの差異論——差異の肯定という別の視点
ジル・ドゥルーズは差異を否定性として把握する哲学的伝統を批判し、差異それ自体の肯定的な生産性を問題にした。ポストコロニアル批評の差異批判は「差異の解消」を目指しているように見えることがあるが、ドゥルーズ的視点は差異そのものではなく、差異を同一性の否定として位置づける論理を問題にする。差異は豊かな多様性の源泉だが、それが権力によって固定され、ヒエラルキーの根拠として機能するとき暴力になる。文化相対主義もまた、差異の固定化なしに差異を尊重する可能性を模索する思想的試みと読める。差異の固定と差異の流動化の違いが、支配と解放を分かつ。
差異の政治学と連帯の可能性
差異の構築を批判することは、差異を消去して「同じ人間」にしようとすることではない。それは差異の生産過程と、差異に付与された意味の恣意性を明らかにすることだ。スチュアート・ホールが文化的アイデンティティ論で示したように、差異は固定した本質ではなく歴史的プロセスのなかで形成されるものであり、変化しうる。差異を問いながらそれを尊重し、差異によって分断された人々のあいだの連帯を構想することが、批判的多文化主義の実践だ。差異が問い直されるとき、そこに新しい共存の形を構想する可能性が生まれる。
差異の政治学は終わらない。それは権力が常に差異を再利用しようとするからであり、批判的思考の課題は常に更新される。
この概念を扱う本
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この概念を扱う本(1冊)
エドワード・サイード
東洋と西洋の差異は客観的事実ではなく、西洋の覇権を正当化するために生産・強調されてきたという議論の中で論じられる。