小説と新聞
18世紀末のヨーロッパ人読者にとって、近代小説は奇妙な読書体験をもたらした。第三者的な語り手が、互いに知り合わない複数の登場人物の行動を「同時に」描く。「その同じ週に、ジョンはロンドンの裏通りを歩き、メアリーはリバプールの港で船を見ていた」——このような語りの構造は、以前には存在しなかった形式だ。
近代小説の語り口が訓練するもの
アンダーソンが小説の叙述技法に着目するのは、それが「同時性」という時間感覚を読者に訓練するからだ。複数の登場人物が同じ時間軸上で異なる場所にいるという表現形式は、現実の社会においても「知らない他者が今このときに存在している」という想像を自然なものとして受け入れさせる。小説の読書は、見知らぬ者たちの「同時的な存在」を想像する練習だった。
メタフィクションと比較すると、この問題の別の面が見えてくる。自己言及的なメタフィクションは小説の語りの慣習を露わにし、「これはフィクションだ」という事実を前景化する。一方で古典的な写実小説は慣習を透明化し、読者に「現実のように」読むことを促す。アンダーソンが着目した同時性の想像は、後者の慣習的透明性に支えられている。
マーシャル・マクルーハンは印刷技術が「視覚的で均一な世界」を作り出すと論じた。印刷活字の規則的な配列が直線的で分析的な思考様式を促進し、「部族的な」口承文化の円環的・共鳴的なコミュニケーションと対照をなすというのがマクルーハンの議論だ。小説という形式はまさにこの「活字文化」の典型的な産物として、特定の意識様式を形成する。
新聞が作る毎日の儀礼
日刊新聞はさらに直接的に「同時性」を作り出す装置だ。今日の新聞は明日には旧聞になる。その短命性と一回性が逆説的に重要な機能を果たす——今日この新聞を読んでいる私は、今日この新聞を読んでいる数十万人の匿名の他者と、同じ「今日」を共有している。
アンダーソンはこの新聞の読書を「大衆的な儀礼」と呼ぶ。毎朝決まった時間に行われ、共通の「テキスト」を媒介とし、参加者に共同体への帰属感覚を与える——これは宗教的な礼拝と構造的に似ている。礼拝が「神の前に共に立つ者たちの共同体」を作るように、新聞の朝読みは「今日という日を共に生きる国民の共同体」を作る。
メディアの一方向性という概念との対比は興味深い。ラジオ・テレビのような放送メディアは、より直接的に「同時に同じものを受け取る」体験を提供するが、その一方向性は受け取る主体の能動性を制限する。印刷メディアは読む時間・速度・場所に自由度があり、その能動的な「読み」がナショナリズムの想像をより深く内面化させる側面があった。
デジタル時代における想像の更新
スマートフォンのプッシュ通知とSNSのタイムラインは、「今このとき」の同時性をより強烈に提供する。ブレイキング・ニュースは瞬時に世界に広がり、国民的な悲劇や勝利は秒単位で共有される。しかし同時に、情報の洪水の中でフィルターバブルが人々を分断し、「同じニュースを読んでいる国民」よりも「同じアルゴリズムに仕分けられたコミュニティ」が想像の共同体の単位になりつつある。
アンダーソンが発見した「小説と新聞が作る同時性」のメカニズムは、デジタル時代に無効になったのではなく、より複雑な形で継続している。想像の共同体が問い続けるのは、どのメディアが、どのような同時性の感覚を作り出し、その結果どのような「われわれ」が想像されるかという問いだ。それは印刷革命と同じように、デジタル革命においても問い直されるべき問いである。
この概念を扱う本
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この概念を扱う本(1冊)
ベネディクト・アンダーソン
アンダーソンは近代小説の叙述技法(複数の登場人物が「同時に」異なる場所で行動すること)と新聞のページ構成(無関係な記事の並列)が、ネイションという「同時的」共同体の想像を訓練すると論じる。