知脈

生物から見た世界

ユクスキュル / クリサート

訳:日高敏隆

生物から見た世界
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客観的な世界という前提を外す — 環世界という視点

『生物から見た世界』でユクスキュルとクリサートがやっているのは、「世界はひとつであり、生物はそれぞれの感覚器官の性能に応じてそれを不完全に捉えている」という常識的な前提を外すことだ。本書の立場はむしろ逆で、動物の数だけ世界がある。マダニは酪酸のにおい、体温に近い温もり、肌に触れた感触という三つの手がかりだけで生と繁殖の全行程を完結させ、色も音も対象にならない。人間から見れば貧しい世界だが、マダニにとってはそれで十分に閉じた、欠けるところのない世界である。ユクスキュルはこの、生物ごとに固有の意味だけで編まれた世界を環世界(Umwelt)と呼んだ。

環世界は知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)が組み合わさってできる。生物は感覚器官で世界から手がかりを受け取り(知覚)、効果器でそれに応じた行動を返し(作用)、その行動がまた新しい知覚を呼び込む。ユクスキュルはこの閉じた循環を機能環(Funktionskreis)と名づけ、生物とその環境は機能環を通じてはじめて一つの単位になると考えた。対象は物理的性質によってではなく、その生物にとっての機能によって意味を持つ「意味の担い手」になる。石ころは人間には座る場所、クモには巣を張る足場、ミミズには通り道であり、同じ物体が生物の数だけ違う意味を帯びる。

この主張を刺激と反応の連鎖だけで説明しようとする当時の機械論的な生理学に対し、本書は動物を単なる反応装置ではなく、みずからの環世界の主体として扱うことを求める。クリサートによる図版は、この転換を理論よりも雄弁に語る。同じ庭や部屋を、人間・ハエ・イヌの目を通した異なる絵として並べて見せることで、読者は「世界はひとつ」という前提が崩れる瞬間を視覚的に体験する。ユクスキュルは生物を石鹸の泡にたとえた。それぞれの生物は自分の環世界という泡に包まれて生きており、他の生物の泡をのぞき込むことは容易ではないが、不可能でもない。本書はその、のぞき込む技術を読者に手渡す散歩の書として書かれている。

環世界論が開いた先 — 記号論・現象学・システム論

環世界論が長く読み継がれてきたのは、生物学の一学説にとどまらず、意味や認識をめぐる複数の分野に接続する結節点になったからだ。生物は刺激に反応するだけでなく記号を解釈する存在だという発想は、のちの生物記号論(バイオセミオティクス)の出発点の一つとされる。ハイデガーは1929年から30年にかけての講義で、石は世界を持たず、動物は世界に乏しく、人間は世界を形成するという三分法を組み立てる際に、マダニの例を含むユクスキュルの議論を検討の対象にした。ユクスキュル自身の結論とは方向を異にするが、環世界論が現象学の側からも無視できない相手として扱われたことを示している。

環世界論はまた、生物とその環境を切り離さずに一つの回路として捉える発想を通じて、後のサイバネティクスやシステム論とも近い場所に立つ。生物とその環境を分けず、意味と差異が循環する回路として捉え直す構えは、クレアチュラとプレロムとしてグレゴリー・ベイトソンが定式化した区別、力と量だけの世界と差異と情報が働く世界を分ける発想に先行するものとして読める。ベイトソンは環世界論から影響を受けた思想家の一人であり、精神と自然における心と自然を回路の論理で統一しようとする試みは、本書の問いを引き継いだ先にある。生物にとって知りうる世界はその生物の機能環が構成する範囲に限られるという主張は、知識の成立条件そのものを問うエピステモロジーの議論として読むこともできる。

いま本書を読む価値は、動物行動学の古典としてだけでなく、認知やロボティクス、多種の存在をどう考えるかという現代の議論への補助線としてもある。生物にとっての環境は与えられた容れ物ではなく、その生物の知覚と行動が編み上げる固有の場だという視点は、身体を離れて成立する認識はないと考える近年の認知科学の一部の立場とも響き合うと論じられている。『生物から見た世界』は、世界の見え方が一つに収束しないことを、理論と図版の両方で示した、いまなお新鮮な入門書であり挑発の書である。

参考資料

- ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、ゲオルク・クリサート『生物から見た世界』日高敏隆訳、岩波書店(岩波文庫) - Jakob von Uexküll, Streifzüge durch die Umwelten von Tieren und Menschen (1934) - Martin Heidegger, Die Grundbegriffe der Metaphysik: Welt, Endlichkeit, Einsamkeit (1929/30 講義) - Giorgio Agamben, The Open: Man and Animal (2002) - Thomas A. Sebeok, Signs: An Introduction to Semiotics (1994)

キー概念(11件)

本書全体を貫く中心概念で、書名(生物から見た世界/Streifzüge durch die Umwelten von Tieren und Menschen)そのものがこの語を指す。ダニ・ハエ・イソギンチャクなど多数の生物例を通じて解説される。

本書はこの区分を軸に、一つの対象が知覚標識の担い手であると同時に作用標識の担い手にもなる様子を、多数の動物例と図式で示している。

本書はこの図式を繰り返し提示し、刺激と反応を一方向の機械的過程とみなす見方に対して、主体と客体を結ぶ循環構造として行動を捉え直す枠組みを与えている。

本書は単細胞生物から高等動物まで一貫して「主体」という語で生物を描写し、機械論的な生物学への対抗軸として生物の主体性を強調している。

環世界という考え方を読者に体感させる最初の具体例として本書冒頭に置かれ、複雑に見える行動がその生物にとって意味のある少数の標識だけで成り立つことを示す象徴的事例になっている。

本書では一本の木など一つの対象を複数の生物がそれぞれ異なる意味で経験する例を示し、対象が主体ごとに異なる「意味の担い手」になることを論じている。

本書は随所で反射学説を退け、行動は刺激に対する単なる物理反応ではなく主体の環世界に根ざす現象であることを繰り返し強調しており、本書全体の理論的な狙いの一つになっている。

動物のさまざまな本能的行動を例に挙げ、これらが環世界という主体的な意味の枠組みの中で初めて理解できるという立場から論じている。

環世界という概念を読者に印象づける象徴的なイメージとして本書に登場し、後年の解説や紹介でもユクスキュルの環世界論を語る際にしばしば引用される著名な比喩になっている。

擬態が「誰にとって」似ているかは見る主体の環世界に依存するという視点を示す例として取り上げられ、客観的な類似そのものではなく主体的な知覚こそが擬態を成立させると論じられる。

本書自体は「記号論」を体系的な学術用語として展開してはいないが、知覚標識・作用標識という概念枠組みが後の生物記号論の源流の一つとされ、本書の理論的射程を語る文脈でしばしば言及される。