想像の共同体
ベネディクト・アンダーソン
国民はいつ「生まれた」のか――アンダーソンが解いた近代の謎を読む。想像することは、虚偽をつくることではない。 1983年に刊行されたベネディクト・アンダーソンのこの一冊は、その逆説から出発する。国民(ネイション)とは、メンバーが互いに顔を合わせることなく、頭の中で共同体の像を「想像」することで成立する社会的構築物だ。これは「国民とは幻想にすぎない」という相対主義ではない。アンダーソンはエルネスト・ゲルナーやエリック・ホブズボームとは異なる角度から問いを立てる――なぜ、この「想像」はかくも強力な力を持ち、人は国家のために命を捧げるほどの帰属意識を感じるのか。そして、それはいつ、どのようにして可能になったのか。
「想像」が本物の連帯をつくる逆説
ゲルナーはナショナリズムを「捏造」として記述し、ホブズボームは「創られた伝統」と呼んだ。しかしアンダーソンは「偽造された」と「想像された」を明確に区別する。村人が顔見知りで形成する小さな共同体も、何億人もの国民からなる国民国家も、ともに「想像」によって成立する――ただその様式が異なるだけだと。想像は虚偽の証拠ではなく、共同体の本質的な条件だという逆転が、本書の出発点にある。
想像の共同体
想像の共同体という概念は、本書が社会科学に残した最大の遺産だ。「国民は自然に存在する」という素朴な前提を解体し、「どのような歴史的条件がこの想像を可能にしたか」という問いを立てることで、比較研究の枠組みが生まれた。「想像された」は「偽物の」ではなく、「特定の様式で成立した」という記述的な言葉として機能する。
グーテンベルクが国境を引いた
ネイションという想像はいつ可能になったのか。アンダーソンの答えは、予想外なほど具体的だ。15世紀の活版印刷と、その後の資本主義的出版市場の結合が決定的な役割を果たした。
印刷資本主義
印刷資本主義とは、印刷技術と市場経済が結合することで生まれた現象だ。出版業者はラテン語だけでは市場が飽和すると気づき、各地の俗語(バナキュラー)で書物を刷り始めた。これが標準化された言語空間を生み出す。同じ印刷物を読む読者群が形成され、言語によって境界づけられた「読者共同体」が、後の国民的空間の原型となった。
俗語(バナキュラー)の標準化
ラテン語という普遍言語の衰退と印刷市場の要請が重なったとき、どの方言が「標準語」になるかはほとんど偶然と権力の産物だった。俗語バナキュラーの標準化に言語的必然性はなく、出版業者が市場を広げようとした経済的動機から始まった。そうして定まった「国民語」が、後に国民という想像の乗り物になる。ある地域の言語が「国語」になり、隣の方言が「外国語」になる境界線は、文化的実体より歴史的経緯によって引かれる。
新聞と小説が育てた同時性の感覚
印刷資本主義が標準語を生み出したとすれば、それを日常の習慣として定着させたのが新聞と小説だった。アンダーソンはここでヴァルター・ベンヤミンの時間論を借用する。
均質・空虚な時間
均質・空虚な時間とは、神の摂理に満ちた「充実した時間」とは異なる、近代的時間意識だ。過去・現在・未来が同質に並ぶ時間軸のなかで、「今この瞬間」を生きる他者との同時性が想像できるようになる。新聞の読者は「自分が今読んでいるこの記事を、同じ言語を持つ数百万の読者も読んでいる」と確信する。見知らぬ者どうしの連帯感は、この同時性の経験に根ざしている。
小説と新聞
小説と新聞の二大メディアは、それぞれ異なるやり方でこの同時性を訓練した。近代小説の語り手は、複数の登場人物が「同じ時間に」異なる場所で行動していることを当然の前提として語る。このフィクションの技法が、読者に「同時に別々の場所で生きる多数の他者」の存在を想像させる。日刊新聞は毎日更新される「儀礼」として、読者を国民的時間の共有へと誘う。相互に無関係な記事が並列するページ構成そのものが、「同じ世界を共有している」という感覚を構造的につくりだす。
なぜアメリカ大陸が先だったのか
本書の最も独創的な主張は、ナショナリズムの起源についての通説を覆すところにある。ヨーロッパ発ではなかった。アンダーソンによれば、世界最初のナショナリズムは南北アメリカのクレオール社会から生まれた。
クレオール・ナショナリズム
クレオール・ナショナリズムの担い手は、旧世界からの入植者の子孫でありながら本国への昇進を閉ざされた植民地官僚や地主層だった。彼らはヨーロッパ人と同じ言語・文化・宗教を持ちながら、行政単位としての植民地を「われわれの地」として意識するようになった。アンダーソンはこのプロセスを「巡礼の旅」と呼ぶ。同じ行政ルートを辿る官僚たちが、その経路を共同体の境界として想像し始めた。アメリカ合衆国の独立(1776年)はフランス革命(1789年)に先行する。この「逆転」を整合的に説明できる歴史理論は、アンダーソン以前にはほとんどなかった。
読みどころ——「モジュール」として世界を席巻したナショナリズム
アンダーソンが後半で展開する議論は、ナショナリズムの「輸出」と「変形」のプロセスだ。ヨーロッパの王朝国家は民衆ナショナリズムの高まりに直面し、「公定ナショナリズム」によって上から国民統合を図った。このモデルが後に植民地支配のテクノロジーとして輸出され、アジア・アフリカの現地エリートに「国家」という想像の枠組みを提供することになる。
逆説がある。宗主国が統治のために整備した学校制度・行政単位・印刷メディアが、反植民地ナショナリズムの温床になった。現地エリートは宗主国の言語と概念を用いて、宗主国への抵抗を組織した。ナショナリズムとは特定の民族や文化に内在するものではなく、「モジュール」として複製・変形可能なものだという視点が、比較研究に豊かな問いをもたらした。
ハラリのサピエンス全史は「フィクションを共有する能力」として人間の協力を説明するが、アンダーソンはそこからさらに一歩踏み込む。その「フィクション」を可能にした歴史的物質条件――印刷技術、資本主義市場、言語の標準化――を精密に特定する。「想像の力は普遍的だ」と言うだけでなく、「この形の想像はいつ、なぜ可能になったか」を問う姿勢が、刊行から40年を超えた今も本書が参照され続ける理由のひとつだろう。
キー概念(13件)
アンダーソンはこの概念を本書の中心テーゼとして提示し、ナショナリズムとは先天的な本能ではなく、歴史的条件のもとで生み出された特定の想像の様式であると論じる。
アンダーソンはナショナリズムの物質的条件として印刷資本主義を重視し、新聞や小説という印刷メディアが、同じ言語を読む不特定多数の人々に「同時性」の感覚をもたらしたと論じる。
アンダーソンはナショナリズムを人種主義や宗教のような固定したイデオロギーではなく、「親族」や「宗教」に近い文化的な人工物(アーティファクト)として分類し直し、その出現の歴史的条件を解明しようとする。
アンダーソンはこの時間概念がナショナリズムの想像を可能にしたと論じる。新聞の読者は「今日、同じ時間に、他の読者も同じ紙面を読んでいる」という同時性を想像でき、それがネイションという共同体感覚を生む。
本書では、どの俗語が「国民語」として選ばれるかは権力と偶然の産物であり、言語的必然性はないと論じられる。印刷業者が市場拡大のために方言を集約・標準化したことが、言語的ネイションの基盤となった。
アンダーソンは近代小説の叙述技法(複数の登場人物が「同時に」異なる場所で行動すること)と新聞のページ構成(無関係な記事の並列)が、ネイションという「同時的」共同体の想像を訓練すると論じる。
アンダーソンは、南米諸国の独立を事例にクレオール・ナショナリズムを世界最初期のナショナリズム形態と位置づける。本国への昇進が制限されるクレオール官僚が、行政単位を共同体として想像し始めたと論じる。
アンダーソンはヨーロッパの王朝国家が民衆ナショナリズムの脅威に直面し、「公定ナショナリズム」によって国民統合を図ったと論じ、これが後に植民地支配のモデルとして世界に輸出されたと分析する。
アンダーソンはナショナリズムを「宗教の後継者」として位置づける。宗教が答えていた「死の偶然性」「苦しみの意味」「連続性」への問いをナショナリズムが引き受けたと論じ、国家のために死ぬことへの崇高さを宗教的殉教と並列する。
アンダーソンは後期植民地国家がこれら三つのツールを用いて統治対象の「自然」「民族」「歴史」を構築し、その枠組みをナショナリズムが引き継いだと論じる。分類と番号付けによる人口管理が近代的アイデンティティ政治の源流にある。
アンダーソンは宗教的巡礼と植民地の行政的巡礼を比較し、どちらも共同体の境界と中心を想像的に確認する機能を持つと論じる。特にクレオール官僚の行政的巡礼がアメリカ大陸のナショナリズム形成に寄与したと分析する。
本書の後半では、植民地の「学校制度」と「新聞」が反植民地ナショナリズムを育てた逆説が論じられる。宗主国が統治のために敷いたインフラ(行政単位・印刷メディア)が、独立運動の想像的基盤になった。
アンダーソンの「ネイションは想像の産物である」という主張は社会的構築主義の代表的論点となった。ただし彼は「想像された」は「偽造された」ではないと強調し、共同体の「本物らしさ」はその想像の様式にあると論じる。