環境
具体例から始める:魚にとっての水
魚は水の中を泳ぐ。水は魚の「環境」だ。しかし魚が「水」を認識しているかどうかは自明ではない。魚の神経系は水圧・温度・化学成分の変化には反応するが、「水全体」を「環境」として認識するわけではない。オートポイエーシスにおいてマトゥラーナとヴァレラが展開する「環境(Environment)」の概念は、この直感を形式化したものだ。
環境とは何か:オートポイエーシスの定義
オートポイエーシス理論における環境とは、システムの外部にある全てのものだが、その「外部性」は観察者によって定義される相対的な概念だ。
重要な主張は:環境はシステムを直接的に決定しない。環境はシステムに摂動(perturbation)を与えることができるが、その摂動に対するシステムの応答の仕方は、システム自体の「組織」と「構造」によって決まる。
これを「閉鎖性(closure)」と「自律性(autonomy)」の概念で説明する。オートポイエーシス・システムは操作的に閉じている——系外からの入力を直接処理するのではなく、系自身の過程を通じて変化する。しかし構造的には環境と相互作用し続ける(開いている)。
環境の抽象化:構造的カップリング
環境との関係においてオートポイエーシス・システムが重要な概念は「構造的カップリング(Structural Coupling)」だ。
システムは環境と反復的に相互作用する中で、環境に対して「適合した」構造を発達させる。魚の体型・感覚器官は水という環境との長期的な相互作用(進化)の結果だ。しかしこれは環境がシステムを「決定した」のではなく、環境との相互作用を通じてシステムが自律的に変化した(構造的にカップリングされた)結果だ。
人間の知覚・認知も構造的カップリングの産物だ。色の知覚・空間認識・言語処理は、身体という生物学的システムが社会・物理的環境と長期的に相互作用した結果として形成された。
理論的意義:刺激-反応モデルへの批判
従来の行動主義的・情報処理的な心理学・認知科学は「刺激→処理→反応」というモデルを前提とした。環境からの刺激がシステム(脳・生物)を一方向的に決定するという立場だ。
オートポイエーシスの環境概念はこれを否定する。環境はシステムに「刺激」を与えることができるが、その刺激の「意味」(システムにとって何が起きるか)は、システム自体の組織・構造によって決まる。同じ環境変化が、異なる構造を持つ異なるシステムに全く異なる結果をもたらす。
批判と限界
オートポイエーシスの環境概念への批判として、「自律性を過剰に強調しすぎる」というものがある。確かにシステムは環境によって直接決定されないかもしれないが、環境の制約は非常に強力だ。環境が適切な範囲を超えて変化すれば(例:水温が細胞の生存限界を超える)、システムは機能を失う。
また「環境との明確な境界はどこか」という問いも難問だ。細胞の「外側」は細胞膜で明確に定義できる。しかし神経システム・免疫システム・生態系においては「内部」と「外部」の境界が曖昧になる。
まとめ
組織・観察者・環境という三つの概念は、オートポイエーシス理論の三角形を形成する。組織がシステムのアイデンティティを定め、観察者がそのシステムを外部から記述し、環境はシステムが自律的に相互作用する外部世界だ。アロポイエーシスとの対比で言えば、アロポイエーシス・システムは環境(設計者・使用者)によって目的を与えられるが、オートポイエーシス・システムは環境に対して自律的な目的を持つ(というより、「目的」という概念さえ外部から持ち込まれたものだ)。
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