知脈

欺瞞、欲望、小説

ルネ・ジラール

欲望を「自分の気持ち」から切り離して読む

『欺瞞、欲望、小説』は、小説を人物の内面告白として読むよりも、人物どうしの関係配置として読む本だ。ルネ・ジラールが見ようとするのは、主人公が何を欲したかより、なぜそれを欲しいと思わされたかである。本書の核心は、人は孤立した自我として欲望するのではなく、誰かの欲望をなぞることで欲望を組み立てる、という発見にある。知脈の概念ページでまず開くべき入口は、模倣的欲望 だ。

この視点に立つと、セルバンテスからスタンダール、フローベール、プルースト、ドストエフスキーまで、ばらばらに見える作品群が一つの問いで連結される。主人公は対象を直接追っているように見えて、実際にはその対象を価値あるものとして示した媒介者を追っている。だから欲望はつねに三者関係になり、恋愛、出世、信仰、名誉のどれを扱う場面でも、羨望と模倣が入り込む。ジラールにとって小説の偉さは、人物の性格を深く描くことだけではない。欲望がどこから来るかを隠す「ロマンティックの嘘」を壊し、欲望の回路そのものを露出させるところにある。読者は物語に没入しながら、登場人物の感情を追うだけでなく、その感情が誰の視線を経由して立ち上がったのかを逆算する読み方へ切り替えられる。ここで小説は心理の鏡ではなく、欲望が他人経由で伝染する実験場になる。対象を手に入れても満足が続かないのは、求めていたのが対象そのものではなく、媒介者が体現している存在の厚みだからだ、という洞察が本書を単なる技法論ではなく人間論にしている。

この本が概念ネットワークの中心に来る理由

本書が面白いのは、文学理論の本でありながら、文学の外へ簡単に伸びていくことだ。模倣が強まると、媒介者は手本であると同時に競争相手になり、崇拝は嫉妬へ、敬意は敵意へと反転する。ここから「内的媒介」「ライバル関係」「ルサンチマン」「スノビズム」といった概念が枝分かれし、後年の『暴力と聖なるもの』へつながる暴力論の入口も見えてくる。逆に言えば、『欺瞞、欲望、小説』を読まずにジラールを読むと、彼の議論は宗教や人類学から始まる大理論に見えやすい。だが出発点はもっと日常的で、他人の視線を通してしか自分の欲望を組み立てられないという、近代的人間の脆さの観察だった。

知脈のネットワーク上では、この本は「文学批評」の棚に収まらない。欲望の三角形は恋愛小説の分析装置であるだけでなく、社交、消費、名声、思想上の対立を読むレンズにもなる。しかもジラールは、凡庸な作品ほど欲望を自発的なものとして飾り立て、偉大な作品ほどその虚構を壊すと考える。ここに「小説的真実」という到達点がある。本書を入口にすると、あらすじより先に、登場人物が誰をモデルにしているのか、どの距離で敵対が発生するのか、最後に幻想が破れるのかという読み筋が生まれる。概念から本へ、本から別の概念へとたどる知脈の回遊を始めるには、かなり強い起点になる一冊である。

参考資料

René Girard | Britannica

Mensonge romantique et vérité romanesque | Open Library

René Girard『暴力と聖なるもの』

ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』

キー概念(12件)

本書の中心理論。ジラールはセルバンテス、スタンダール、フローベール、プルースト、ドストエフスキーの作品を横断的に分析し、偉大な小説家たちは一様に登場人物の欲望が模倣的構造を持つことを描いていると論じる。

ジラールが文学分析の分析装置として提示する基本図式。ドン・キホーテがアマディス・デ・ガウラを媒介として騎士道精神を模倣する例を出発点に、あらゆる欲望の物語を三角形として読み解く。

書名「欺瞞、欲望、小説」の「欺瞞」にあたる概念。偉大な小説家はこの嘘を暴露し、欲望の模倣的本質を明かす「小説的真実」を描くとジラールは主張する。凡庸な作家はロマンティックの嘘を強化するだけである。

ジラールは媒介者を「外的媒介者(主体と社会的・時空間的距離が大きい)」と「内的媒介者(主体と同じ世界に存在し、競合が生じる)」に分け、近代文学が内的媒介を中心に展開していると分析する。

ジラールはドン・キホーテ、ジュリアン・ソレル、エマ・ボヴァリー、プルースト的語り手などの「小説的転換」を分析し、死の床あるいは失意の底で主人公が模倣欲望の虚偽に気づく瞬間を「小説的真実」の開示と見なす。

スタンダール、フローベール、プルースト、ドストエフスキーの作品を分析する際の鍵概念。スノビズム、嫉妬、ルサンチマンはすべて内的媒介の産物であり、近代社会の平等化とともに内的媒介が支配的になったとジラールは論じる。

ジラールはドン・キホーテのアマディス崇拝から近代のスノビズムまで、模倣的欲望の深層には対象への欲求ではなく媒介者の「存在」への憧れがあると論じる。形而上的欲望は満たされるほど空虚になるという逆説を持つ。

ドン・キホーテとアマディス・デ・ガウラの関係が典型例。騎士の時代はすでに過ぎ去っており、媒介者は手の届かない理想として機能する。ジラールはこれを近代小説以前の英雄的模倣と対比させる。

プルーストの『失われた時を求めて』分析の中心概念。ゲルマント家への憧れや社交界への接近欲求はすべて内的媒介による模倣的欲望の産物であるとジラールは読み解き、スノビズムを近代社会における内的媒介の典型例として位置づける。

内的媒介の必然的帰結としてジラールが論じる。フローベールの『赤と黒』やドストエフスキーの諸作品において、人物たちは対象を欲するよりも相手を打ち負かすことそのものを欲するようになる逆説的な欲望の転倒を描く。

ドストエフスキーの「地下室の手記」の語り手分析において核心的に登場する。内的媒介において媒介者への崇拝と憎悪が共存する両義的感情がルサンチマンであり、ジラールはこれを内的媒介が激化した状態の産物として描く。

ジラールが分析する偉大な小説はすべてこの転換で終わるとされる。ドン・キホーテの臨終の悟り、プルーストの語り手の芸術家としての覚醒がその典型。この転換なしに小説は「ロマンティックの嘘」を再生産するだけに終わると論じられる。

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