知脈

帝国主義

imperialism帝国植民地支配

帝国主義は十九世紀の過去の出来事ではない。その文化的・経済的・制度的遺産は、植民地支配が「終わった」後も世界の地理的不平等として継続している。この継続性を問わなければ、帝国主義は時代区分の概念にとどまる。政治的独立の後も続く従属関係を問い直すことが、帝国主義を分析する真の意義だ。

版図の拡張と文化の伴走

マルクス主義の伝統(ホブソン、レーニン)は帝国主義を資本の過剰蓄積と市場拡大の必要性から説明してきた。この経済的分析は今日も有効だが、エドワード・サイードが強調したのは帝国主義の文化的次元だ。軍事的征服が先行し、文化が後から正当化のために動員されるのではなく、文化的・知的準備が征服を可能にし、それを継続させる。東洋についての知識体系が整備されるほど、東洋への介入は「合理的」に見える。帝国という政治的概念が経済的・軍事的側面を強調するとするなら、帝国主義はその文化的基盤を含めた総体的分析を要求する。サイードの『オリエンタリズム』が示したのは、東洋学・文学・外交が「文化的帝国主義」として機能したという点だ。征服は砲艦の後に来るのではなく、地図と言語と知識体系とともに進行する。

コンラッドの曖昧性——批判なのか共犯なのか

エドワード・サイードはジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』を詳細に読んだ。この小説はアフリカへの植民地的蛮行を描いており、一見して帝国主義批判と読める。しかしサイードは指摘する——コンラッドはヨーロッパ人植民者の残虐性を告発しながら、アフリカ人たちには声を与えない。アフリカは「人間の前歴史」「人類の暗黒面」として機能する景色であり、独立した主体性を持つ人々の土地としては描かれない。良心的な批判でさえ帝国主義的視点の枠組みから脱しがたいという論点は、文学批評を超えて知識人一般への問いとなる。自分の批判が何を見え、何を見えなくしているかを問うことが、帝国主義批判の誠実さの試金石だ。ポストコロニアリズムが文学批評に持ち込んだのは、この「見えなくさせるもの」への問いだ。

脱植民地化の不完全な達成

二十世紀後半、植民地独立運動は「政治的脱植民地化」を達成した。しかしポストコロニアル批評が問うのは、政治的独立後も継続する経済的・文化的・知的依存関係だ。ネオコロニアリズム(新植民地主義)という概念は、かつての宗主国による直接支配が多国籍企業・国際機関・メディアなどを通じた間接的支配に転換したことを指す。独立後の国々が経験する「発展」の言説も、西洋的近代化を規範とする帝国主義的思考の継続だという批判がある。帝国主義の終わりは政治的独立宣言ではなく、依存関係の構造的転換によってはじめて問われる。脱植民地化は目的地ではなく、継続的なプロセスとして理解されなければならない。

全体主義との比較から見える帝国主義の特殊性

ハンナ・アーレントは全体主義の起源を分析するなかで、ヨーロッパの植民地支配がナチズムの「練習場」だったという論点を提示した。全体主義が国内でおこなったことを、ヨーロッパは植民地において先に試みていた——組織的な暴力、官僚的支配、人種的ヒエラルキーの制度化。帝国主義の問題は西洋の「外部」の問題ではなく、西洋的近代の内部的矛盾として問い直す必要がある。この視点から帝国主義を問うことは、西洋の進歩の物語を根底から再考することを要求する。

帝国主義の遺産を問うことは、現在の国際秩序の正当性への問いでもある。

この概念を扱う本

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この概念を扱う本(1冊)

オリエンタリズム
オリエンタリズム

エドワード・サイード

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オリエンタリズムは帝国主義的プロジェクトの文化的・知的基盤として機能したという視角から、文学や学術と政治的支配の共犯関係が論じられる。