ポストコロニアリズム
支配が終わっても残るもの
植民地支配が法制度上終わっても、それが残す傷跡は経済・政治の領域にとどまらない。言語・教育制度・美意識・「正常な歴史」の語り方まで、植民地時代に構造化されたものが、独立後も知的・文化的な権力関係として持続する。ポストコロニアリズム(postcolonialism)はこの持続性を批判的に問い直す学問的・政治的潮流だ。「ポスト」は「植民地支配が終わった後の時代」という中立的な時間的意味ではなく、植民地主義の遺産が現在にどう機能し続けているかを問い続けるという批判的立場を表す。終わったはずの支配が、言語・思考・欲望の構造に生き続けることへの問いが、この潮流の核心にある。
サイードが切り開いた地平
エドワード・サイードのオリエンタリズム(1978年)は、この潮流の理論的礎石となった。サイードは、西洋が「東洋」について語る言説の全体が、知識の中立的な記述ではなく、支配関係を正当化し再生産する権力の実践だと論じた。旅行記・小説・植民地行政の報告書・人類学的調査——これらが互いに参照しながら「東洋」という対象を作り上げてきた。ホミ・バーバはサイードを継承しつつ、被植民者の「ミミクリー」(支配者の模倣)が植民地支配を同時に受け入れ・かく乱するという複雑な主体性を論じた。ガヤトリ・スピヴァクは「サバルタンは語れるか」という問いで、知の生産体制からの排除を問い続けた。この三者それぞれが、ポストコロニアリズムの異なる側面を照らし出す。
知の生産における非対称性
ポストコロニアル批評が問い続けるのは、誰が「知識」を生産し、誰がその対象にされるのかという非対称性だ。欧米の大学・出版社・学術誌が知識の正統性を定義し、それ以外の地域はしばしば「研究対象」として現れる。ポスト構造主義(デリダ、フーコー)が提供した言説・差異・権力の分析概念は、ポストコロニアリズムと深い親縁性を持つ。両者は「普遍的」とされる知識の歴史的・政治的文脈を解体しようとする点で共鳴する。批判的思考をポストコロニアルな文脈で鍛えることは、「中立な知識」という幻想そのものへの問いとなる。
ブリコラージュという抵抗の形式
ブリコラージュ——手元にある雑多な素材を組み合わせて新しいものを作る実践——は、植民地的状況での文化的抵抗のメタファーとして機能することがある。植民地下の人々は、支配者の言語・教育・宗教を受け取りながら、それを別の文脈で再組み立てし、支配に回収されない意味を生み出してきた。チーマムンダ・ンゴズィ・アディーチェが「単一のストーリーの危険性」と呼んだもの——一つの語りがある集団の全体を代表するとされること——もステレオタイプと連動する植民地的知の問題だ。ポストコロニアリズムは、この抵抗の創造性を無力化ではなく、複数の語りを取り戻す能動的な実践として読む。支配の言語で書かれた文学が、支配そのものを問い返す力を持ちうる——その可能性への問いが今も続く。
ポストコロニアリズムは「解放の達成」を語らない。植民地支配からの独立は政治的に達成されても、知的・文化的な解放は別の課題として残る。「誰の言語で書かれた独立宣言か」「誰が設計した教育制度で育てられた独立運動家か」という問いは、「独立」という概念そのものの複雑さを示す。ポストコロニアリズムが「ポスト」を時間的意味で使わないのは、この複雑さへの意識ゆえだ。
この概念を扱う本
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この概念を扱う本(1冊)
エドワード・サイード
本書自体がポストコロニアル批評の創始的テクストとして位置づけられ、ホミ・バーバやガヤトリ・スピヴァクとともに分野を形成した。