エントロピー増大の法則
エントロピー増大の法則は、熱力学の第二法則のひとつであり、孤立した系では時間とともにエントロピー(無秩序さの度合い)が増大する傾向があることを示す。福岡伸一は著書『生物と無生物のあいだ』において、生命体がこの熱力学的な宿命に抗う動的なプロセスであるという視点から、生命の本質に迫った。
エントロピー増大の法則をめぐる根本的な問い
コップを落とすと割れるが、割れたコップが自然に元に戻ることはない。氷は常温で溶けるが、水が自然に氷に戻ることはない。熱は高温から低温へ流れるが、逆は起きない——これらはすべてエントロピー増大の法則の表れだ。物理的プロセスには「方向」があり、その方向は秩序から無秩序へ向かう。これが時間の矢を生み出す。
生命体はなぜこの法則に抗って、高度に秩序化された状態(低エントロピー)を維持できるのか——これが生命の根本的な謎だ。薄い塩水がひとりでに複雑なタンパク質を作り出したり、細胞を自発的に組織したりすることはない。生命体が秩序を維持するためには、エネルギーの継続的な投入が必要だ。
思想の系譜
物理学者シュレーディンガーは1944年の著書『生命とは何か』で、生命は「負のエントロピー(ネゲントロピー)を食べる」と表現した。生命は環境からエネルギーを取り込み、エントロピーを環境に排出することで、自身の秩序を維持する開放系だ。この洞察は生命の物理的基盤への根本的な問いかけとして、分子生物学の発展を刺激した。
プリゴジンは散逸構造の理論でノーベル賞を受賞し、開放系が平衡から遠い状態でエネルギーの流れを通じて自発的に秩序を生み出す(散逸構造)ことを示した。竜巻・炎・生命体はいずれも、エネルギーの流れを通じて一時的な秩序を維持する散逸構造だ。
現代への接続
現代の宇宙論では、宇宙全体のエントロピーは増大し続けており、最終的には「熱的死」(最大エントロピー、均一な温度分布)に向かうとされる。この宇宙的スケールのエントロピー増大の中で、局所的に秩序を作り出す太陽・惑星・生命・社会・文明は、エネルギーの流れを利用した一時的な「逆行」として位置づけられる。動的平衡・代謝・生命とは何かという概念と組み合わせることで、生命が宇宙の熱力学的プロセスの中にどう位置づけられるかという大きな視点が開ける。
エントロピー増大の法則が残すもの
エントロピー増大の法則が問うのは「なぜ宇宙には秩序があるのか」という根本的な問いだ。流れと秩序の関係、時間の方向性、生命と宇宙の関係——これらの問いはエントロピーという概念を通じて相互に接続されている。
遺伝子という概念の変容
「遺伝子」という概念は、メンデルが想定したシンプルな単位から、複雑な調節ネットワークの構成要素へと変容してきた。生物と無生物のあいだが示すように、遺伝子は固定した実体ではなく、文脈によって意味が変わる動的な概念だ。一つの遺伝子が複数のタンパク質をコードし、複数の遺伝子が一つの形質に関わる。エピジェネティクスの発見は、遺伝が配列だけでは決まらないことを示した。遺伝子を「理解した」と思った瞬間に、新たな謎が現れる——これが生命科学の魅力である。
この概念を扱う本
概念ネットワーク
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この概念を扱う本(4冊)
ジェレミー・リフキン
リフキンはエントロピーを物理法則としてだけでなく、文明・社会・経済の分析にも適用した。
エルヴィン・シュレーディンガー
生命と熱力学の関係—エントロピーと生命の秩序維持の逆説
福岡伸一
生命がエントロピー増大に逆らって秩序を維持しているように見えるが、実際には開放系として物質とエネルギーを取り込み排出することで局所的な秩序を保っていることを説明する文脈で用いられる。
ピーター・コヴニー
時間の非対称性(過去から未来への一方向性)をエントロピー増大という熱力学の第二法則と結びつけ、時間の矢の物理的根拠を論じる核心的な著作