負のエントロピー
負のエントロピー——生命はいかにして無秩序に抗うのか
熱力学の第二法則は「エントロピーは増大する」と言う。閉じた系では無秩序は増し、最終的に何もかもが均質になる熱的死を迎える。ならば生命はなぜ秩序を維持できるのか。エルヴィン・シュレーディンガーは1944年の『生命とは何か』でこの問いに挑んだ。
シュレーディンガー『生命とは何か』の中心テーゼ
シュレーディンガーの答えはエレガントだ——生命は「負のエントロピー(negentropy)」を食べている。エントロピーとは無秩序の度合いだ。生命体は周囲の環境から秩序(低エントロピー)を取り込み、高エントロピーの廃熱や廃棄物を排出することで、内部の秩序を維持する。
食事はまさにこの営みだ。複雑な分子構造を持つ食物(低エントロピー)を取り込み、熱やCO2(高エントロピー)を排出する。植物は光(低エントロピーの光子)を取り込み、ATPという化学的秩序を作る。太陽系全体で見ればエントロピーは増大しているが、地球上の生命は太陽の低エントロピーを使って局所的な秩序を維持している。
この議論は当時の生物学者に衝撃を与えた。ここで提示された「遺伝情報が結晶的な安定性を持つ非周期的固体(aperiodic solid)に格納されている」という予言は、1953年のDNA二重らせん発見への道を開いたとされる。ワトソンとクリックはシュレーディンガーの本を読んでDNA研究に入った。
生命の情報論的理解
シュレーディンガーは生命を「物理化学的プロセスで説明できるが、まだ知られていない法則が必要かもしれない」と述べた。この「新しい法則」として、後に情報理論・サイバネティクス・システム生物学が発展した。
クロード・シャノンの情報理論(1948年)でも「情報量=不確実性(エントロピー)の削減」として情報はエントロピーと関係付けられた。生命は情報を処理することで、エントロピー増大に抗うシステムだ——この見方は現代の計算論的生物学の基礎をなす。
生命の偶然性と目的論
シュレーディンガーの議論は「生命に目的はあるか」という問いにも触れる。熱力学的には生命は「たまたま」局所的な秩序を作り出す物質だ。目的論を持ち込む必要はない。しかしシュレーディンガー自身は、意識・自由意志の問題に関心を持っており、純粋な物理主義で満足していなかった。
「負のエントロピーを食べる」という比喩は詩的だが、科学的には不正確だという批判もある。エントロピーを直接「食べる」のではなく、自由エネルギーを利用して内部のギブズ自由エネルギーを維持するというのが現代の正確な理解だ。
カンブリア爆発との対比
カンブリア爆発(グールド)は、生命の多様化が爆発的に起きた時期だ。偶然の変異と自然選択が多様性を生むというダーウィン的説明に対して、グールドはこれが必然ではなく偶然の産物だと強調した。シュレーディンガーの負のエントロピー論は「生命がなぜ可能か」を問い、グールドは「生命の多様性がどう展開したか」を問う——問いのレベルが違うが、どちらも物理・化学的決定論への問いかけだ。
生命史の偶然性とあわせて読むことで、生命の起源から多様性までの問いが立体的になる。
シュレーディンガーが物理学者として生命の謎に踏み込んだことの意義は、「生命は特別な魂の力で動く」という生気論と「生命は単なる化学反応だ」という還元主義の間に、第三の立場——情報処理としての生命——を切り開いたことだ。この立場が現代分子生物学・情報生物学の哲学的基盤となっている。
この概念を扱う本
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この概念を扱う本(1冊)
エルヴィン・シュレーディンガー
生命体が熱力学的秩序を維持できるのは負のエントロピーを外部から取り込むから