エディプスコンプレックス批判
エディプスコンプレックス批判は、家族が重要ではないと言うための概念ではない。問題にするのは、欲望の行き先や苦悩の由来を、父・母・子の三角形へあまりにも早く回収してしまう診断の習慣だ。ある人の不安、執着、反抗、創造性を語るとき、すべてを家庭内ドラマへ折り畳むなら、職場、国家、貨幣、制度、メディア、都市空間がどのように欲望を編成しているかが見えなくなる。批判の焦点は欲望の否定ではなく、その地理の狭さにある。診療室の語彙が社会の地図をどこまで削ってしまうのか、そこが争点になる。
家族劇への縮減に抗う
フロイトのoedipus-complexは、子どもの欲望と禁忌を説明する強力な図式だった。しかし図式が強力であるほど、個別の現実はそこへ適合させられやすい。アンチ・オイディプスが攻撃したのは、症状の意味を家族関係に訳し直すこの習慣である。ラカン以後の理論では象徴秩序が強調されても、欲望を読む入口として家族三角形が優先される構図は残った。すると社会的暴力や階級的圧迫も、最後には「父との関係」の話へと私化されてしまう。普遍的図式の名で局所的な歴史が消される点が、この批判の第一歩だ。
欲望は社会を流れている
ドゥルーズとガタリにとって、欲望は欠如を埋める内面劇ではなく、生産し接続する流れだった。工場、学校、消費、官僚制、広告、革命運動の中で、欲望はすでに社会的に配線されている。ミシェル・フーコーが制度分析で示したように、主体は権力装置の外で完成してから管理されるのではない。主体そのものが装置の中で作られる。だから欲望を家族に閉じ込めると、資本主義がどのように従順さや競争心を欲望の形として作るのかが見えにくくなる。一九六〇年代末の政治運動がこの概念を強く受け止めたのは、抑圧が家庭の外で制度的に組織されている感覚が共有されていたからでもある。
診断の言語が従順さを作る
この批判は理論上の言い争いにとどまらない。診断の言語は、苦しみをどこへ帰属させるかを決めるからだ。失業、差別、制度的抑圧の経験があっても、「本当の原因は幼少期の家族関係だ」と言い換えられれば、社会的な問いは脱政治化される。そこでは矛盾する現実を同時に受け入れるdoublethinkに近い状態が生まれる。外部の暴力は見えているのに、説明は常に内面へ戻されるからだ。合理化が進んだ社会ほど、こうした私化は洗練された専門語で正当化されやすい。学校や福祉の現場で「適応」が重視されるとき、欲望の非適応的な力がどこまで切り詰められているかも問われる。
反精神分析ではなく配線の変更
エディプスコンプレックス批判は、無意識や幼児期の影響を全面否定するものではない。むしろ、無意識をもっと広い回路へつなぎ直す試みだと言える。レヴィ=ストロースのブリコラージュが手元の材料を組み替えて別の秩序を作るように、この批判も欲望を家庭の物語から解放し、制度、歴史、経済、身体の諸関係へ再配線する。フェミニズムやポストコロニアル理論が家族規範と国家規範の絡み合いを問うときにも、この視点は生きる。重要なのは、苦悩をどこに置けばよいかではなく、欲望がどこで切断され、どこで流れを与えられているかを読むことだ。家族はその一部にすぎず、全体図ではない。 欲望を社会的配線として読む視線が失われると、苦悩はいつも家庭の寓話へ縮んでしまう。
この概念を扱う本
概念ネットワーク
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この概念を扱う本(1冊)
ジル・ドゥルーズ, フェリックス・ガタリ
書名そのものが示す本書の中心的批判対象。精神分析が「おまえの問題は家族にある」と個人化・私化することで、資本主義や権力への欲望の政治的分析を不可能にしていると論じる。