物質と記憶
アンリ・ベルクソン
訳:杉山直樹
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知覚とは外界の複製ではなく、行動のためにイマージュを削ることである
『物質と記憶』でアンリ・ベルクソンが最初に組み替えるのは、「知覚とは外界を脳の中に写し取ることだ」という素朴な前提である。観念論は物質を意識の内容へと解消し、実在論は意識から独立して存在する物自体としての物質を立てる。ベルクソンはそのどちらにも与せず、物質を意識から独立した実体でも意識の内容でもなく、「イマージュ」(像)の集合として捉え直す。身体もまた無数のイマージュの中の一つにすぎず、ただ行動の中心となる特権的なイマージュとして位置づけられる。
物質のイマージュどうしはたがいに作用と反作用を及ぼし合っているが、身体という中心は、受け取ったすべての作用に等しく反応するわけではない。身体は行動に関わる部分だけを選び取り、それ以外を素通りさせる。ベルクソンが「純粋知覚」と呼ぶ理論的な限界状態において、知覚とは物質に何かを付け加える作業ではなく、身体の可能な行動に応じてイマージュから何かを差し引く作業だとされる。だから知覚は最初から実践的であり、世界を認識するための道具である以前に、行動のための道具である。身体は他のイマージュとは違い、自分自身を外側から知覚するだけでなく内側からも感じる特権的な一点でもある。ベルクソンはこの感じられる面を「情動」と呼び、知覚と行動のあいだに滑り込む身体固有の余白として位置づける。脳はイマージュを生産する工場ではなく、行動に無関係な作用を遮断するフィルターとして機能する、というのが本書前半の骨格をなす主張である。
記憶は脳に保存されているのではなく、行動に呼ばれるまで潜在する
この身体論の上に、本書後半は独自の記憶理論を築く。ベルクソンは記憶を二種類に区別する。一つは反復によって身体に刻まれる「習慣としての記憶力」で、これは知識というより一種の運動機構であり、想起されるというより現在の行動として演じられる。もう一つは、一度しか起こらなかった出来事を日付ごと刻みつける「純粋記憶」で、こちらは物質的な痕跡としてではなく、潜在的なイマージュとして保たれる。有名な円錐の図式は、行動する現在に触れる頂点と、そこから広がる過去の全層を一つの図に重ね、想起とは円錐のどの水準を収縮させて現在の行動へ差し出すかという操作であることを示している。再認という現象を分析する際も、ベルクソンは身体の運動的な習慣による自動的な再認と、記憶イマージュを何層も呼び出しながら知覚へ送り返す注意的な再認とを区別し、後者では知覚と記憶のあいだに大小さまざまな「回路」が形成されると論じる。
この構図にもとづき、ベルクソンは当時有力だった説、すなわち記憶は脳のどこかに痕跡として貯蔵されているという局在論を退ける。失語症の臨床例を検討しながら、そこで損なわれているのは記憶そのものではなく、記憶を現在の知覚へ接続し直す感覚運動的な回路のほうだと論じる。過去は消えてなくなるのではなく、行動に呼び出されるのを待って存在し続ける——この主張は、過去に一種の実在性を認める点で当時の心理学から際立っていたとされる。潜在的なものとして持続するこの過去という発想は、のちにジル・ドゥルーズの差異と反復における強度や潜在性をめぐる議論にも流れ込み、持続の哲学を批判的に継承する系譜を形づくった。
いま『物質と記憶』を読む意味は、記憶や心のはたらきを脳の内部構造だけで説明しようとする語り口がなお根強い時代にこそある。ベルクソンは、知覚も記憶も身体の行動可能性を抜きには語れないと説き、心と物質の関係を実体どうしの対立としてではなく、持続のリズムの違いとして考え直す道を示した。この身体と知覚の記述は、のちにモーリス・メルロ゠ポンティらの現象学が身体を思考の出発点に据える際の重要な参照点にもなったとされる。哲学史上の一冊としてだけでなく、心・身体・時間の関係を考えるための厳密な思考の型として、この本はいまも読み直す価値を持っている。
参考資料
- アンリ・ベルクソン『物質と記憶』(杉山直樹訳、講談社学術文庫) - Henri Bergson, Matière et mémoire: Essai sur la relation du corps à l'esprit (1896) - Henri Bergson, Essai sur les données immédiates de la conscience (1889) - Gilles Deleuze, Le Bergsonisme (1966) - Gilles Deleuze, Différence et répétition (1968) - Maurice Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception (1945)
キー概念(11件)
本書冒頭で導入され、物はイメージにすぎないとする観念論と、物はイメージから独立して実在するとする素朴実在論の対立を退けるための足場として全篇を貫く。
第二章・第三章で習慣記憶と対比的に論じられ、脳が損傷しても記憶そのものは失われず、想起へと至る経路が損なわれるにすぎないという議論の要となる。
詩を繰り返し暗誦して覚える例で説明され、純粋記憶との二重性を示すことで、記憶力という語が指す領域の広さを浮かび上がらせる。
第一章で身体を無数のイマージュの中でも感覚と運動が交わる特権的な一つとして位置づけ、以後の議論全体の土台に据える。
「イマージュの選別」という第一章の主題のもとで論じられ、そこに記憶が付け加わることで初めて具体的な知覚が成立するという段階づけがなされる。
本書では、過去が消え去らずに蓄積され続けることの根拠として持ち出され、記憶と物質の関係を時間的スケールの違いとして捉え直す土台になる。
第二章で失語症などの臨床例を検討しながら再認の仕組みが分析され、記憶力と脳の関係を論じるための中心的な事例として扱われる。
第三章で提示される本書屈指の図式であり、純粋記憶が現在の知覚に近づくにつれ徐々に現勢化していく過程を説明するために用いられる。
序文と結論部で、観念論・実在論・伝統的二元論のいずれとも異なる立場として本書全体の哲学的構えを要約する際に用いられる。
過去がどのように保存されているかを説明する鍵として第三章で展開され、記憶を脳内の痕跡へ還元する立場に対する反論の中心に据えられる。
第一章で生物と無生物、下等な生物と高等な生物とを分ける指標として導入され、身体を行動の道具とみなす本書の身体論の核をなす。