知脈

メディア論

マーシャル・マクルーハン

訳:栗原裕 / 河本仲聖

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メディアという形式そのものが人間の感覚比率を変える

『メディア論』でマクルーハンが提示する最も知られた定式は「メディアはメッセージである」である。本書が問うのは、あるメディアが何を伝えるかではなく、そのメディアという形式それ自体が人間にどんな作用を及ぼすかという問いだ。テレビが伝えるニュース内容よりも「テレビというメディアの存在」の方が、視聴者の知覚や社会関係を根本から組み替える、というのが本書の一貫した主張である。マクルーハンはこの逆説を補強するために、あるメディアの「内容」は常に別のメディアであるとも述べる。文字の内容は話し言葉であり、活字の内容は文字であり、電信の内容は活字である、という具合に、メディアは入れ子状に積み重なっていて、私たちは新しいメディアの効果を古いメディアの内容に気を取られて見落としがちだと指摘する。

本書はさらに、あらゆる技術を身体の拡張として捉える。車輪は足の拡張であり、書物は目の拡張であり、衣服は皮膚の拡張である。そして電気的なメディアは、こうした個別の感覚器官ではなく中枢神経系そのものを外部化する、とマクルーハンは論じる。この枠組みから「ホットなメディア」と「クールなメディア」という区別も導かれる。ホットなメディア(写真やラジオなど)は情報の密度が高く受け手の参加をあまり要求しないのに対し、クールなメディア(漫画やテレビ、対話など)は情報が粗く、受け手が空白を埋めるために能動的に関与しなければならない、と本書は整理する。この区別は厳密な二分法というより、メディアごとの参加の質を測るための思考の道具として提示されていると読むのが妥当だろう。

この身体拡張の議論は、技術への手放しの礼賛では終わらない点に注意したい。マクルーハンはナルキッソスの神話を引き、人は自分自身が生み出した拡張を外部の対象と取り違えて見とれ、その代償として拡張した感覚そのものを麻痺させてしまうと論じる。自動車が足を拡張して行動範囲を広げる一方で、歩くという感覚を日常から遠ざけてしまうように、あらゆる拡張は同時に一種の自己切断を伴う。この「拡張と麻痺」の対をなす発想は、新しい技術を手放しで進歩とみなす見方にも、逆に一方的に脅威とみなす見方にも、本書が与しない理由になっている。

部族社会から活字人間へ、そして電気メディアが呼び戻す地球村

『メディア論』が射程に収めるのは個々のメディア論にとどまらない。人類史そのものを、支配的なメディアの交代史として描き直す試みでもある。声だけで結ばれた部族社会では、人はあらゆる感覚を同時に働かせて世界を聴覚的な空間として経験していたとマクルーハンは論じる。ところが表音文字と活版印刷の登場は、視覚を特権化し、経験を直線的で分割可能な連続に変換した。均質で反復可能な活字文化が、個人主義や国民国家、分業化された近代社会を準備した、というのが本書の歴史観である。

この直線的な活字文化を電気メディアが揺り戻す、というのが本書後半の核心的な主張だ。電信・ラジオ・テレビは情報を瞬時かつ同時多発的に運び、時間と空間の隔たりを縮小させる。マクルーハンはその帰結を「地球村」という言葉で呼び、電気の速度は人類を再び部族的な、感覚が輪切りにされない全体的な経験へ引き戻すと述べる。本書はまた、新しいメディアが現れた直後、人はそれをバックミラー越しに眺めるように一つ前のメディアの型で理解しようとする傾向も指摘する。初期の自動車が「馬なし馬車」と呼ばれたように、新しい環境の内実はいつも一歩遅れてしか把握されないというわけだ。

ここで思い出したいのは、本書が一貫して問題にしているのが伝えられる中身ではなく伝わり方の様式だという点である。この意味で本書は、コミュニケーションのデジタル・アナログの区別のように、様式そのものが関係のあり方を規定するという系譜に連なる。また、電気メディアが運ぶものを最終的に信号の集まりとして捉え直すなら、情報理論が用意した「情報を内容から切り離して量として扱う」という発想と、メディアを内容から切り離して効果を測ろうとする本書の態度は、無関係ではないだろう。

いま『メディア論』を読む価値は、個々の予言の的中率を採点することではない。新しい技術が現れるたびにその技術が運ぶコンテンツにばかり注意が向き、感覚配分や関係の様式そのものが変えられていく過程が見過ごされやすいという指摘を、そのつど自分の手元の技術に当てはめて考え直せる点にこそある。

参考資料

- マーシャル・マクルーハン(栗原裕訳)『メディア論』みすず書房 - Marshall McLuhan, Understanding Media: The Extensions of Man (1964) - Marshall McLuhan, The Gutenberg Galaxy: The Making of Typographic Man (1962) - Harold A. Innis, Empire and Communications (1950) - Claude E. Shannon and Warren Weaver, The Mathematical Theory of Communication (1949)

キー概念(10件)

メディアはメッセージである
100%

本書第一章の表題であり全体を貫く基本命題。自動車・貨幣・時計など個別メディアを論じる各章で、内容でなく形式の効果を分析する枠組みとして繰り返し適用される。

人間の拡張としてのメディア
98%

原題(Understanding Media: The Extensions of Man)が示す通り本書全体を貫く基本枠組みで、住居・衣服・貨幣・時計など多様な対象を人体機能の拡張として章ごとに分析する土台となっている。

クールなメディアとホットなメディア
90%

本書の早い段階で導入される基本的な分類軸で、複数メディアの性質比較や、異なる温度のメディアが組み合わさる際の効果を論じる章で中心的に用いられる。

地球村
85%

電信・テレビなど電子メディアを論じる文脈で展開され、活字文化がもたらした個人主義・分断から、部族的な一体感への回帰(再部族化)へと結び付けて論じられる。

感覚比率
70%

文字文化が視覚偏重の感覚比率を生んだのに対し、電気メディアは諸感覚を再統合すると論じる際の理論的基礎として、複数の章で個別メディアの影響を説明するために用いられる。

自己切断(感覚の麻痺)
70%

冒頭近くでナルキッソス神話を引き、人は自らの拡張(メディア)に気づかず麻痺した状態でそれに適応してしまうと論じ、メディアへの無自覚な没入を批判する根拠として提示される。

再部族化
65%

地球村論と対をなす社会変容の説明として、ラジオやテレビが人々を一体的な情報環境に包み込み、活字時代以前の部族的感覚を電子的に再現すると論じられる。

メディアの内容は別のメディアである
65%

「メディアはメッセージである」を補足する形で提示され、人々がメディアという形式の影響を見過ごし、その中身である旧メディアにばかり注目してしまう傾向を指摘する文脈で登場する。

聴覚空間と視覚空間
60%

部族社会や電子時代の知覚様式を、線形的な活字文化の視覚空間と対比して説明する際に用いられ、地球村・再部族化論を支える知覚論的基盤として機能する。

メディアの交雑(ハイブリッド・エナジー)
55%

「ホットとクール」の議論に続く章で展開され、ラジオと映画の融合によるトーキーの誕生など、異種メディアの結合が新たな効果を生む事例とともに論じられる。