暴力について
ハンナ・アーレント
訳:山田正行
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権力と暴力を切り分ける — 「暴力は権力の最も苛烈な現れである」という通念への異議
1969年、アメリカはベトナム戦争の泥沼のただ中にあり、パリでは前年に五月革命が起こり、プラハでは民主化の試みがソ連の戦車によって押しつぶされていた。学生運動は世界各地で同時多発的に噴き上がり、暴力は政治的手段としてかつてなく身近なものになっていた。当時の新左翼の一部は、サルトルやファノンに導かれて暴力を歴史を切り開く創造的な力として語り、毛沢東の「権力は銃口から生まれる」という言葉に象徴されるように、暴力を権力の根源、あるいは権力が最も剥き出しになった姿とみなす発想は、保守から急進派まで広く共有されていた。ハンナ・アーレントが本書で試みるのは、暴力を権力の表れとみなすこの見方そのものへの異議申し立てである。
そのために彼女がまず行うのは、政治を語る語彙の腑分けだ。権力・強さ・力・権威・暴力という、日常語ではほぼ同義に扱われる五つの言葉を、アーレントは厳密に切り分ける。強さは個人に属する性質であり、権威は強制も説得も必要としない自発的な承認によって成り立つ。そして権力とは、人々が共に行為する能力そのものを指す——それは個人が所有できるものではなく、人々が集まり共に行動している限りにおいてのみ存在し、集団が解散すれば消滅する。これに対して暴力は本質的に道具的なものであり、常に何らかの実行手段を必要とし、少数者、時にはただ一人の人間が多数を支配することさえ可能にしてしまう。権力が複数性からしか生まれないのに対し、暴力は数を必要としない。
暴力は権力を破壊できても創造できない — 「政治における嘘」「市民的不服従」との接続
この定義から導かれる本書の核心は、権力と暴力が同じ現象の濃淡ではなく、むしろ対極にあるという命題である。暴力が全面的に支配するところでは、権力はすでに失われている。逆に言えば、ある統治が暴力装置の増強に頼らざるを得なくなること自体が、被治者の同意と協働という権力の基盤を失いつつある徴候にほかならない、とアーレントは論じる。圧倒的な軍事力を持つ国家が小国相手の戦争に行き詰まり、キャンパスの抗議行動を機動隊と催涙ガスなしに収拾できなくなる同時代の光景は、力の量の問題ではなく権力の空洞化として読み直される。
同じ視線は、本書に併録された「政治における嘘」にも貫かれている。国防総省秘密報告書が明るみに出したのは、事実を欠いたまま積み重ねられた政策決定と、政策立案者自身が自らのイメージ操作にからめとられていく過程であり、これも現実を共有する基盤——権力を支える信頼——が空洞化した事態の別の顔として読めるとアーレントは見る。「市民的不服従」では、法を犯す抵抗を私的良心に基づく個人の逸脱ではなく、共通の利益のために連帯して行動する集団的行為として位置づけ直し、これもまた権力概念に接続する。
こうした暴力論は、暴力と聖なるものでルネ・ジラールが試みる分析とは対照的な角度から光を当てている。ジラールが模倣的欲望と身代わりの犠牲というメカニズムから暴力の起源と社会秩序の生成を説明しようとするのに対し、アーレントは暴力を徹底して政治的なカテゴリーとして扱い、それが何かを基礎づける力を持たないことを強調する。両者を並べて読むと、「暴力はなぜ生まれるのか」という問いと「暴力は政治において何をなし得るのか」という問いは、切り分けて考える必要があることが見えてくる。この権力論はまた、全体的支配のもとで人と人とのあいだの権力空間そのものが解体されていく過程を描いた全体主義の起原から続く問題意識の延長線上にも位置づけられる。暴力の世紀を生きた思想家が最終的に示したのは暴力の全否定ではなく、権力と暴力を混同したまま政治を語ることの危うさそのものである。
参考資料
- ハンナ・アーレント『暴力について』(山田正行訳、みすず書房) - Hannah Arendt, Crises of the Republic (1972) - Hannah Arendt, The Origins of Totalitarianism (1951) - René Girard, Violence and the Sacred (1972)
キー概念(11件)
表題論文「暴力について」の中心命題であり、権力・強さ・強制力・権威・暴力という基本語彙を定義し直す作業の要となる。学生運動やニューレフトが権力奪取の手段として暴力を語ったことへの批判の土台になっている。
ベトナム戦争に関する国防総省秘密報告書(ペンタゴン・ペーパーズ)の暴露を素材にした同名論文の主題で、政策立案者の自己欺瞞的な「問題解決」思考がいかに現実離れした組織的な嘘を生んだかを分析する。
同名論文で、ベトナム反戦運動などの不服従行動を素材に、市民的不服従を単なる違法行為や個人の良心の問題ではなく集団的・政治的な現象として捉え直し、民主政の法体系にそれを組み込む余地を検討する。
本書では暴力が道具に頼り本質的に「無言」であるのに対し、活動は言論を通じて人々の間に権力を生み出すとされ、活動・言論の領域と暴力の領域とが対比的に論じられる。
「暴力について」で権力と暴力を制度的に見分ける基準として提示され、革命や抵抗運動における暴力の行使がどこまで正当化可能かを判定する分析枠組みとして用いられる。
「暴力について」で、官僚制化が進むほど人々は訴えるべき相手を失い、その無力感がかえって暴力への衝動を招くという逆説として論じられ、当時の学生運動が巨大組織に向けた怒りの分析に用いられる。
権力・強さ・強制力・暴力と並ぶ政治の基本語彙の一つとして定義され、伝統的権威の衰退が現代社会における暴力への傾斜と結びつけて論じられる。
核兵器という大量破壊力の出現が暴力(戦争)を政策の合理的手段として使えなくしたという逆説を糸口に、目的のための手段という工学的思考を政治に適用することの限界が論じられる。
1960年代ニューレフトの学生運動が暴力を革命の創造的な力として理想化したことへの批判の中で取り上げられ、暴力を生命の躍動というカテゴリーで語ることの危うさが論じられる。
本書では独立した主題としてよりも、権力を「人々が一致して行為する能力」と定義する際の前提として働き、暴力が少人数や一人でも行使しうる点との対比を支える。
巻末の「政治と革命についての考察」で、学生運動やニューレフトが依拠した革命理論と暴力の関係が問い直され、暴力の行使と権力の獲得・新体制の樹立とが区別して論じられる。